最後の遊泳(2)
「ルネ、そんなに悲しまないでくれ。お前が幸せを掴んだと知って、今日ほど幸せな日はないんだ。すべての罪を赦されたような、穏やかな気持ちなんだ。この幸福な気持ちのまま、神のもとへ――愛する者たちのもとへ行きたいんだよ」
「何でそんな……勝手すぎるよ、オーギュは……だって、ようやく会えたのに……俺は」
泣きじゃくるルネを主人は胸に抱き寄せた。嗚咽に震えるその背中を、とんとんと優しく叩く。
その音が、子守唄のように、鼓動のように、胸の奥に悲しく響いた。
――お願いだ、ルネ。これは悲しむようなことじゃない。私はとても幸せなんだ。ずっと陽の光を浴びたかった。あの目の眩むような光、肌に落ちる熱を、遠い昔に失った半身のように、永いあいだずっと恋焦がれていた。最後にそれを、お前と一緒に見たいんだ。
ぽつりぽつりと、主人の声が耳許に落ちる。懐かしいその声が、何度も自分の名を呼んだ。
――ルネ。ルネ。どうか悲しまず、祝福してくれないか。私は幸福なんだよ。きっとあの人も天国で祝福してくれている。お前の幸せと、私の幸せを。
涙で震える胸に柔らかな夜風を吸い込み、主人の満ち足りた声に心を澄ませた。
永遠に、そばにいられたらいいと思っていた。その孤独を、自分が埋めてやれると思っていた。
出口のない暗闇の世界。それが伴う苦しみをわかろうともせずに、主人を永遠の夜の淵で生かそうと思っていた。
でも、主人が望んでいたのは、そういうことではなかったのかもしれない。
濡れた目許を拭い、顔を上げた。
誰より大切なこの人に、祝福を贈ろう。長い苦しみに別れを告げる、新しい光を。
「――じゃあ俺からも、お願いしてもいい?」
ルネが尋ねると、主人は静かに頷いた。
「血を吸ってほしいんだ。そうすれば元の姿に戻るんだろ? あの舞踏会の夜みたいに、この街の一番高いところに連れて行って。この街のてっぺんで一緒に朝を迎えよう」
その願いを聞き、主人はしばし言葉を失った。
「だが、私はお前の血を――」
「オーギュだって俺に無理なお願いをしているんだから、これでおあいこだよ」
精一杯の強がりを言うと、主人は降参したような息を吐いた。
「――わかった。首筋を出してみろ」
そう言われて、寝巻きの襟をぐいと引き下げた。ルネの細い首筋が、月明かりの下に青白く浮かび上がる。
「痛くしないでね」
「心配するな。優しくするよ」
主人はルネの腰を引き寄せ、首筋に顔を埋めた。その冷たさに身を預け、静かに瞼を閉じた。
ちくり、とかすかな痛みが肌に走った。
暗い体内で、ひとつの方向に、すうっと血液が流れていく。月の引力に引っ張られ、ふわりと空へ舞い上がるように――
真っ赤な血が、主人の中へ流れ込んでいく。
足元が宙に浮くような眩暈と陶酔。穏やかな漆黒の海が、ルネを優しく包み込んだ。
ふたたび目を開けると、懐かしい主人の顔がそこにあった。蒼白く熱のない、彫像のような顔が――
その夢の形をたしかめるように、指先で頬に触れた。
「――やっぱり、こっちの方が格好いいよ」
主人は仮面を外し、にやりと口の端を上げた。
「よし、お前もちゃんとした服に着替えてこい。靴も履いてこいよ。最後の晩だ、お前も格好つけてくれ」
主人は笑いながらルネの背中を押しやり、家の中に戻そうする。
言われてみて気づいたが、主人はアンリから聞いた話とは違い、真新しい一張羅に身を包んでいた。もしかして主人は、どこかに新品の服を隠していたのだろうか――?
いつか迎える〈最後〉の夜のために。
一向に動き出そうとしないルネに、主人は優しく微笑みかけた。
「早く行ってこい。心配するな、ちゃんとここで待っているよ」
その言葉に背中を押され、ルネは走り出した。
大慌てで部屋に戻り、マクシムの結婚式用にあつらえた一張羅をまた引っ張り出した。
主人の夜会服にも似た、漆黒のラウンジ・スーツと黒のボウ・タイ。まだ履き慣れない黒のエナメル靴に踵を押し込み、最後の仕上げに、むかし主人に作ってもらった黒の眼帯を左目の上に付けた。
着替えが終わり、ふたたび颯爽と中庭に現れたルネの姿に、主人は顔を綻ばせた。
「ずいぶんと決まっているじゃないか。お前もだいぶいい男になったな」
「いい男が、ふたり、だろ?」
打って変わって陽気な顔をしたルネは、極上の赤ワインの瓶とふたつのワイングラスを両手に抱えていた。
「オーギュ! この素晴らしき夜に祝杯をあげようぜ!」
夜空にワインの瓶を掲げると、主人の瞳が腕白な少年のように輝いた。
「おいで、ルネ。パリの夜をともに泳ごう!」
漆黒のオペラ・ケープが蝙蝠の羽のように翻る。
主人の腕がルネを抱く。足元が宙に浮く。時間が巻き戻ったような懐かしさに胸が詰まる。
セーヌの暗い流れを越えて、ルーヴル宮の屋根の上。暗闇に沈むパレ・ロワイヤルを抜け、オペラ座へ。その緑青の円屋根に降り立った。
黄金の竪琴を掲げ持つアポロン像の足元に腰を下ろし、ワインの栓を開け、乾杯をした。
さすがに深夜ともなれば、繁華街を行き交う人もまばらだった。
「ここでマリー=アンヌと出会ったんでしょう?」
マリー=アンヌに聞いたのか、と主人は短い笑い声を上げた。
「正確にはこの建物ではないのだけれどね、この前に建てられていたオペラ座だ。仮建築の建物だったから、いまよりもっと質素だったよ。でも大きな仮装舞踏会がたびたび開かれてね、派手に仮装したパリ市民が押し寄せて、朝まで乱痴気騒ぎだったんだ」
「へえ。出会った頃のマリー=アンヌ、綺麗だった?」
主人はくちびるからワイングラスを離し、優しい視線を彼方に向けた。
「……綺麗なんてもんじゃない、春の女神のようだったよ。この世の美しいものをすべてかき集めても、あの人には到底敵わないだろう」
「よくそんな歯の浮くような台詞が言えるね!」
ルネは水色の目を剥き、素っ頓狂な声を上げた。
「何だって言うさ。最後の晩だからね」
いつもより饒舌な主人がおかしくて、ルネはケラケラと身をよじった。そして悪戯な目で、主人の顔を覗き込んだ。
「じゃあ俺は? 俺に出会ったとき、どう思った?」
すると主人の指が伸び、ルネの金髪を優しく梳いた。
「――野良猫みたいだと思った」
「そっちは女神で、こっちは野良猫かよ!」
文句を言うルネを見て、主人は楽しげに目を細める。
「でも、極上の野良猫だよ。きれいに洗って餌をたっぷりやれば、美しい立派な猫になると思った」
猫をあやすように、主人の指が顎をくすぐる。
「もう猫じゃない。お前は黄金のたてがみを持ったライオンだよ」
「さすがにそんなに立派じゃないだろ」
照れ臭いのをごまかしたくて、残りのワインを飲み干した。
夜会の続くショセ=ダンタンの街並みを抜け、リセ・コンドルセの古い校舎をひらりと飛び越える。サン=ラザール駅の屋根を踏み、ルネが教師として勤めるプティ・リセの中庭に降り立った。
「教師の仕事はどうだ?」
「毎日トラブル続きだよ、クソガキばっかりで!」
誰もいない夜の校舎に、ルネと主人の笑い声が響く。
「お前だってむかしは大変だったよ。生意気で、反抗的でな」
それを言われてしまうと、主人には頭が上がらない。
「……そうだね。自分も同じ立場になってみて、オーギュの苦労がしみじみわかるよ」
思い返せば酷いこともたくさんした。泣き喚き、怒り狂い、暴言を吐き――自分を助け出し養ってくれた恩人に対し、よくもあれほど傍若無人に振る舞えたものだ。
馬乗りになって首を締めたり、ナイフを自分の首に突きつけたこともある。だけどそのたびに主人は、怒ることも見放すこともなく、ルネが安心して眠りにつくまでずっと抱きしめていてくれた。
「――たくさん迷惑かけて本当にごめん。俺がヴァンピールになれば、ずっとそばにいられると思ってた。オーギュの腕の中が好きだった。その中でずっと甘えていたかった」
すると主人は声もなく笑い、ぼそりとこう呟いた。
「謝ることはないよ。私だってお前に甘えていたんだから」
「甘えてた? 俺に? いつ?」
ルネが問い詰めると、主人はばつが悪そうに視線を逸らした。だが返事を待つルネの圧に負け、やがてこう白状した。




