最後の遊泳(1)
マクシムの結婚式から自宅へ戻り、ルネは幸せな気分で床についた。
夢を見ていた。暗い夜空を、自由自在に泳ぐ夢だ。
見上げれば満天の星。下には星屑をばら撒いたような、美しい夜の街並みが広がっている。
暗い波間に身を任せ、上へ下へと浮遊する。どこか懐かしい、穏やかな漆黒の宇宙の中を。
そのとき星のひとつが、かちん、と弾けた。続けて、ふたつ、みっつ――弾けて瞬き、夜の底にこぼれ落ちる。
かちん――その明らかな音に、ルネははっと目を覚ました。
呼吸を止め、耳を澄ました。深夜の暗闇。寝室はしんと静まり返っている。
気のせいかと思い、ルネはまた心地よい眠りの中に戻ろうとした。だがふたたび、窓ガラスを打つ鋭い音が、暗い部屋の中に明確に鳴り響いた。
ルネは寝台を降り、窓際に立った。月明かりの落ちる中庭に目を凝らし――それを目撃した。
夜の庭の真ん中に、闇を凝縮したような、背の高い黒の輪郭。その影の中、ふたつのサファイアの瞳が闇夜の猫のように光った。
ルネは裸足のまま、転がるように部屋から飛び出した。裏階段を数段飛ばしで駆け下り、壊れるような勢いでドアを開ける。その先に伸びる渡り廊下を飛び降り、全速力で中庭へ駆け出した。
その人は、たしかにそこにいた。飽きるほど夢に見た、愛おしい黒い影。
夢じゃない。いや、もう夢でも幻でも、何だって構わない。
「――オーギュ!」
勢いのまま抱きつこうとすると、主人は掌を前に突き出し、ルネの動きを制止した。
「待ってくれ、ルネ! 私はもう、お前が知っているあの頃の私じゃないんだ」
ルネは慌てて足を止めた。
主人は突き出した右手をゆっくりと掲げ、頭の上のハットを取った。そしてもう片方の手で、目許を覆った白い仮面を剥いだ。
――アンリから聞いた通りだった。石膏のようだった滑らかな皮膚は、暗い赤紫に変色していた。顔には深い皺が寄り、溶けた蝋のようにただれている。額の一部は腐って削げ落ち、白い頭蓋骨が覗いていた。艶やかだった黒い髪も、長年の日差しに晒されたように潤いを失い、ところどころ抜け落ちていた。
あの、何よりも美しいものを愛する主人が、ずっとこんな姿で。
「見てくれ、ルネ。醜悪だろう? ヴァンピールは死人なんだ。血を吸わないでいればこうなる。これが本来の姿なのだよ」
主人は帽子と仮面を元に戻し、自嘲混じりのため息を吐いた。
だが、ルネは微笑み、両腕を前に差し出した。怖がる野良猫を安心させるように、一歩一歩慎重に近づいていく。
「大丈夫だよ、オーギュ。俺はオーギュがどんな姿でも何とも思わない」
ルネの右の目に、深い安堵と喜びが滲んで揺れる。
「だから、抱きしめさせて」
主人はかすかに頷いた。ルネは主人の首にそっと両腕を回し、その肩に顔を埋めた。
出会ったばかりの頃は、見上げるほど背が高かった。それなのに今は、さほど背丈が変わらない。
初めて出会ったあの夜から、十年の月日が流れていた。
ぼろぼろと涙をこぼすルネを、主人の腕が優しく抱いた。
「大きくなったな、ルネ」
懐かしい声。あの頃と同じ冷たい肌。涙が溢れて止まらない。
「――会いたかった。ずっと下水道に隠れていたの? オーギュが辛い思いをする必要なんてなかったのに」
主人は答えに躊躇い、しばらく口を閉ざした。だがやがて、観念したようにとつとつと語り出した。
「……あの日大切な女性を失い、化け物のような行いを続けていく意味を失った。これ以上、誰の血も吸いたくなくて地下に降りた。あの日から何度もこの世から消えてしまおうと思ったんだ。こんな姿になり惨めな思いまでして、この世界にしがみつくなんて馬鹿げている。――それなのに、ただひとつだけ望んだ願いを諦めることができなかった」
「願い、って――?」
主人はルネにこう告げた。
「この世で、誰かひとりだけでも幸せにしたかった」
長い指が伸び、ルネの金の髪を優しく梳いた――昔と何ひとつ変わらないやり方で。
「――こんな私を必要としてくれるあの女性のために、長いあいだこの世に留まっていた。だが私は、最後まで彼女を幸せにすることができなかった」
「できなかった、って……それってマリー=アンヌのこと?」
主人は頷いた。
「もし私が彼女の前から姿を消せば、彼女は別の男と出会い、幸せな家庭を築いていたかもしれない。彼女の優しさに甘え、離れられずにいたのは私の方だ。それともいっそ、彼女をヴァンピールにしてやればよかったのだろうか。ずっとその答えが見つからなかった。今でもよくわからないんだ」
主人の哀しみと後悔が、霧雨のように耳に染み込んでいく。
以前、マリー=アンヌをヴァンピールにしておけばよかったのにと主人を罵ってしまったことを思い出した。主人がどれほどマリー=アンヌを大事に想っていたのか知りもしないで――
「マリー=アンヌは、自分の人生に後悔はないって言っていたよ。オーギュを愛することができて幸せだったと思う」
「……そうだったらいいな」
白い仮面の下から、今にも泣き出しそうな吐息が落ちた。
「自分が生きるために、たくさんの人を殺してしまった。化け物のようなやり方で、人の生き血を吸って生きてきたんだ。その償いには到底足りないだろうが、誰かひとりだけでも幸せにすることができれば、卑しく永らえてきたことに意味を見出せる気がした。だからあの夜、お前を引き取った。不幸に耐えてきたこの子に、幸せな人生を歩ませてやろうと思ったんだ――身勝手な理屈だとわかっているが」
ルネは涙を拭い、主人を安心させようと笑みを浮かべた。
「そういうことなら、その願いはとっくに叶っているよ。俺はオーギュのお陰でちゃんと幸せを掴んだんだから」
ルネは誇らしげに胸を張った。
「俺さ、ふたりの孤児の父親になったんだよ。女の子はエミリー、男の子の方はジャン。ジャンはね、オーギュと同じ黒髪でオーギュみたいに絵が上手なんだよ。エミリーは金髪で、天使みたいに可愛いんだ。だからもう、ヴァンピールにしてほしいなんて無理なお願いはしないよ。ずっとそばにいるって、あの子たちと約束したから」
すると主人は、胸元から小さな紙切れを取り出した。
主人が取り出したものは、ルネがパリの下水道中に残した手紙の一枚だった。
「今日、これを見つけたんだ。お前が幸せに暮らしていると知って、どうしてもお前に会いたくなった。ルネ、私にとって今日ほど幸せな日はないよ。お前は、与えられるべきだった物を何ひとつ持たずにこの世界に生まれ、自分の力で幸せを勝ち取ったんだ。お前の強さと賢さと優しさを、私は心から誇りに思うよ」
蒼い瞳が自分に優しく微笑みかける。ルネは小さな頃のように主人の腕にしがみついた。
「ねえ、これからは一緒に暮らせるよね? 子どもたちには、俺の主人がヴァンピールだってちゃんと話をしてあるんだ。アンリも俺と一緒にずっとオーギュを探してくれていたんだよ。だからオーギュも安心して、俺たちとこの家で――」
だが、主人は静かに首を振った。
「今日はお前に、最後お願いをしようと思って来たんだ」
「最後、って――」
思いもよらぬ言葉を聞き、ルネの声がかすかに震えた。
「一緒に、朝日を見たいんだ」
主人が何を言っているのか、一瞬意味がわからなかった。だがその真意を呑み込んだ瞬間、背筋に恐怖が駆け上った。
「だって、太陽を見たら、オーギュは――!」
それ以上言葉が続けられなかった。そんなルネに主人は凪いだ海のような瞳を向けた。
「ずっと眠りたいと思っていた。私の存在する先には、果てのない暗闇が続いている。その永遠の闇に別れを告げたいんだ。先に空に昇った大切な者たちと、月と星々が、私が来るのをずっと待っているから」
主人の声が、形をなさないまま耳の奥を通り過ぎていく。
目の前に降りていく真っ暗な帳。それを振り払うように、ルネは頭を振った。
「ルネ、お願いだ。こんなことはお前にしか頼めない。私がこの世界から消えていくときに、お前にそばにいて欲しいんだ。願いが叶ったいま、もうこの世に心残りはない。残酷なことを言っているのはよくわかっている。だが、どうか聞き届けてくれないか」
「――嫌だよ! どうしてそんな……」
声を上げた瞬間、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちた。主人は幼な子を宥めるように、俯くルネの顔を覗き込んだ。




