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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
最終章 接吻と祝福
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地下の怪人(4)

 翌日アンリはふたりの子どもを連れ、デパートと公園をはしごすることに決めた。

 三人が外出したのを見届けると、ルネは汚れてもいい古い服と靴に着替えた。

 裂いたシーツで鼻と口を覆い、オイルのランタンを片手に持つ。自宅近くの人気のない通りを選び、鉄製のマンホールを引き開けた。

 底の見えない澱んだ闇が、ほのかな臭気とともに姿を現す。

 アンリと相談し、下水道へと降りるのは、水道会社も休日だと思われる日曜、あるいは子どもが就寝した後の土曜の深夜、週に一日一時間程度にすることに決めた。

 仕事も子どもの世話もあるのだから、主人の捜索にかかりきりになるわけにはいかない。

 ランタンを片手に掲げ、地下へと続く梯子を慎重に降りはじめる。途端に、じっとりとした闇が執拗に皮膚に纏わりついた。

 果てしない時間、パリの地下に堆積し続けた淀んだ闇。口許を覆った布が意味をなさなくなるほどの強烈な悪臭。そのどろりと重い暗闇の先へ立ち入ることに、一瞬躊躇いを覚えた。

 ようやく梯子の端まで行きついて、足場をランタンで確認しながらゆっくりと足を下ろした。下水道の両側に細い通路があり、その上を二本の水道管が走っている。

 下水道回廊というものだ。

 パリのあらゆる汚物の末路である、濁った水の流れが足元にあった。刺すような臭気に襲われ、目に涙が滲んだ。

(――あれほど潔癖性の主人が、こんな場所で長年暮らせるものだろうか)

 頭をかすめる疑いを振り払い、歩みを進めた。――探すしかない。手掛かりはこれしかないのだから。

 しばらく通路に沿って歩いていくと、一段と天井が高く、水量の多い幹線下水道に出た。

 方向から推測すると、おそらくサン=ジェルマン大通りの下を走っているのだろう。ルネはその通路を歩きながら、壁の亀裂に小さな紙切れを差し込んだ。

 それはルネから主人に宛てた手紙だった。

 〈オーギュ。俺は幸せに暮らしているよ。仕事もしているし、子どもをふたり育てている。あの家でみんな一緒に、ずっと帰りを待っているよ〉

 下水道の中を一時間ほど歩き回りながら、同じ内容の手紙を十通ほどあちこちの隙間に差し込んだ。

 果たして主人はこの手紙を見つけてくれるだろうか。わからない。もし読んでも、帰って来てくれるとは限らない。でも、やるしかない。

 ルネは後ろ髪を引かれる思いで、元のマンホールへと戻った。

 同様の作業を、ルネは毎週末続けた。

 最初のうちは、きっとすぐに主人を見つけ出せるだろうと楽観的な考えを抱いていた。だが春が終わり、うだるような夏が過ぎ、秋が近づくにつれ、徐々に失望が胸をよぎるようになっていった。

 下水道のあちこちに残した手紙も、三百通に届くほどになっていた。




 爽やかな青空が広がる秋のはじめ、パリ郊外の小さな教会でマクシム・ゴーシェの結婚式が執り行われた。

 式に参列するため、ルネは漆黒のラウンジ・スーツを新たに仕立てた。ジャンには子ども用のグレイのスーツ、エミリーには水色のシフォンのドレスを。金の巻き毛に花冠をかぶったエミリーは、花の妖精さながらだった。

 気づけばアンリまでちゃっかり参列している。どうやらアンリは花嫁衣装を手掛けるオートクチュール・メゾンで、マクシムの妻にさまざま世話を焼いたらしい。

 着慣れない一張羅に身を包み、緊張に顔を引き攣らせるマクシムを見て、ルネは何度も吹き出しそうになった。

 初めて顔を合わせた新婦は、薔薇色の肌をした赤毛の女性だった。少し訛りのあるおっとりとした喋り方がとても可愛らしかった。

 胸の下で絞ったエンパイアラインのウェディングドレスには、ノルマンディー地方の名産であるリンゴの花の刺繍が広がっている。長いヴェールが秋風になびく姿は、まるで絵画のように幻想的だった。

 ルネは積み重なった心労を忘れ、心の底からふたりを祝福した。久々に味わう、明るく幸せな秋の日だった。




 

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