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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
最終章 接吻と祝福
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地下の怪人(3)

 ふたりに夕飯を食べさせて寝かしつけた後、アンリは大荷物を抱えて帰宅した。あるクチュリエがミラノに新しいメゾンを出店するというので、その下見について行ったのだという。

 アンリは帰宅するなり、使い込まれたルイ・ヴィトンの旅行トランクを広げた。エミリーへの土産の人形や、ジャンへの土産のボードゲームなどをつぎつぎに引っ張り出すと、ふと手の動きを止める。

「――ルネ。お前にひとつ確かめたいことがあるんだけど」

「何? 突然どうしたの?」

 アンリは視線を上げ、ルネの瞳をじっと見据えた。

「もしお前の主人が見つかったら、ルネはどうしたい?」

 ――どうしたい? そう問われて、ふたりの子を養子に迎え入れて以来、主人との再会を諦めはじめていた自分に気づいた。

 主人と別れてから五年以上の月日が経っている。いまだに消息は掴めない。

 この家に主人が戻ってくる保証は端からなかった。再会した後のことまで具体的に考えてはいなかった。

 ルネは知らぬ間に形を変えていた自分の心を手探りながら話しはじめた。

「……オーギュがもしひとりで辛い思いをしているなら、俺が手助けをしてやりたい。できることならこの家でみんな一緒に暮らしたいし、せめて俺が寿命を迎えるまではオーギュを外の世界から守ってやりたい。アンリがそれを許してくれればの話だけど」

 ルネの返答を聞きくと、アンリはどこか安心したような表情を浮かべた。

「お前があいつをここに住まわせるかどうかは、俺が口を出すことじゃない。ルネがそうしたいならそうすればいい。でも、俺があいつと気が合うとは到底思えないけどな。もし毎日喧嘩することになっても、それは見過ごしてくれよ」

 アンリは冗談混じりにそう言った。

「ごめん。アンリには何から何まで頼りっぱなしで」

「そう思うなら、ルネは俺の我儘をすべてにおいて優先してくれ。お前は意外と人遣いが荒いからな」

(そんなこと言って、一番の世話焼きはアンリのくせに)

 一見我儘そうに見える割に、アンリが本気で我儘を言ったことがあっただろうか。どんなときだってアンリは世界のすべてに優しい。

「もちろんそうする。もしオーギュとアンリが喧嘩になったら、ちょっとだけアンリの肩を持つよ」

「ケチるなよ! だから全面的に俺を援護しろって!」

 アンリはケラケラと肩を震わせ、だがすぐに笑うのを止めた。

「……でも、ルネがそう言ってくれてちょっと安心した。もしヴァンピールになりたいって言いはじめたら、どうしようかと思ってた」

 ぽつりとこぼしたアンリの言葉にルネは目を剥いた。

「そんなこと言うわけないだろ、あの子らだっているのに……! 家族も、家も、仕事も……ぜんぶ放り出してヴァンピールになりたいって言うほど、俺はもう子どもじゃない!」

 思わずムキになって言い返すと、アンリはほっとした表情を浮かべた。

「そっか、ずいぶん大人になったな、ルネも」

 だけどそんなふうに言われると、胸の奥がむず痒い。

「……違うよ。責任感なんかじゃないんだ。俺は――」

 あの頃、何もかもが不安で隙間だらけだった胸の中が、もうすっかり満たされている。

 帰る家がある。自分を待っている人がいる。大事なものが山ほどある。

 この世界はすでに、自分の家だった。

「――幸せなんだよ。今の生活を捨てられない。俺はもう、オーギュと同じ時間を生きられない」

 ルネは自分の膝頭をぎゅっと掴んだ。その掌の上にアンリが掌を重ねる。

「じゃあもしお前の主人が、ヴァンピールになってほしいと頼んだら?」

「……えっ?」

「ヴァンピールとしてともに生きてほしいとルネに頭を下げたら、ルネはどうする?」

 あの主人がそんなことを言い出すわけがないのはわかっている。

(でも、もしオーギュが俺にそう頼んだとしたら――)

 あの頃の自分なら、二つ返事でヴァンピールになっただろう。それ以外、何も欲しいものがなかったあの頃の自分なら――

「答えてくれ」

 この世界に強く引き留めるように、アンリの指が食い込んでいく。

「嘘のない気持ちを聞かせてくれ」

 ルネは大きく深呼吸をし、アンリの掌を握り返した。

「絶対にヴァンピールにはならない。俺は今の生活が一番大事だ」

 その言葉を聞いた安堵からか、アンリの指の力が緩んだ。

 アンリは手を離し、トランクの底から一冊の本を取り出した。無言のままそれをルネの前に突き出した。

「――La Fantôme de lʼOpéra(オペラ座の怪人)。ガストン・ルルーの? へえ、出版されたんだ。でも、これがいったいどうしたの?」

 数年前から日刊紙に連載されていた人気小説だ。アンリがこんなものを買ってくるとは意外だなと思いながら、その中身をぱらぱらと捲る。

「――列車の待ち時間に駅の本屋で買ったんだけどさ、それ、モデルがいたってルネは知ってた?」

「モデルって何の? ファントムの?」

 深刻な顔をしてアンリは頷いた。

 オペラの怪人と言えば――オペラ座の地底湖に住む、死人のようなおぞましい容貌をした謎の男だ。

「本屋の店主が教えてくれたんだ。この話、下水道の掃除夫のあいだで、四、五年前から噂になっていたことを基に書かれたらしいって」

「噂って?」

「――パリの下水道に〈化け物〉が出るって」

 その言葉を聞いて息が止まった。

 パリの暗渠式下水道は、十四世紀頃から建設が開始、時代とともに整備され拡張し続けた。十九世紀前半から下水道内部に上水道管も敷設されるようになり、現在の総延長は六百キロ以上。

 大都市パリの地下に蠢く闇の迷宮だ。

「黒いシルクハットとオペラ・ケープを身につけた、長身の男なんだって。顔の上半分を白い仮面で覆っていて、たとえ出くわしても向こうからぱっと逃げていく。だから下水道に住み着いた狂人か浮浪者だろうって、これまで特に問題にならなかったらしいんだけど――」

「それってまさか――」

「ルネ、とりあえず最後まで話を聞いてくれ」

 アンリは結論を急ごうとするルネを制止した。

「その男の容貌っていうのがさ……ちょっと」

 口にするのを躊躇うように、アンリは少し間を置いた。

「――大火傷でも負ったみたいに、顔がどろどろに溶けているらしいんだ。よく見れば着ている服もボロボロで、まるで腐った死体が墓場から蘇ったみたいなんだと。だから掃除夫たちはその男を〈化け物〉って――」

 化け物。

 茫然自失となったルネを見て、アンリは取り繕うように笑みを浮かべた。

「やっぱりお前の主人とは別人だよな? だってヴァンピールって歳を取らないんだろ? あのギリシャ彫刻みたいな顔が、そんなふうになるわけ――」

「血を吸っていないのかもしれない」

 頭の中に真っ暗な予感が渦を巻いた。

 ヴァンピールが血を吸わないでいると、見た目の若さを保てない。そうマリー=アンヌから聞いている。マリー=アンヌが亡くなった後に血を吸いに行かなかったときも、突然年老いてしまったように見えた。

 主人が消えた時期と〈化け物〉の目撃情報が出始めた時期も、ぴたりと一致している。

(この屋敷から消え、そのまま下水道へ身を隠し、今までずっと血を吸っていないのだとしたら――)

 ルネの手から『オペラ座の怪人』が滑り落ちた。咄嗟に押さえた口許から、悲鳴にも似た声が漏れる。

(まさかそんな暗くて汚い場所に、五年以上もたった独りで――!)

 ルネは床の上に泣き崩れた。そんなルネの背中にアンリは慌てて飛びついた。

「――ルネ! もう大丈夫だ! 居場所がわかったんだから、あとは見つけ出すだけだろ!」

 どうしてもっと早くに見つけ出してやれなかったのだろう。自分が恵まれた生活を送っているあいだ、そんな酷い状態にひとり置き去りにして――

「早く探し出してこの家に呼んでやろう。これは悲しむことじゃない、ようやく掴んだいいニュースだよ。居場所がわかったんだからすぐに再会できるって!」

 アンリの必死の励ましに、ルネは何度も頷いた。これは幸運へ手掛かりなのだと、自分を納得させるように。

(――そうだ、オーギュはこんなに近くにいたんだ。ようやくみんなで幸せになれる)



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