地下の怪人(2)
「どうやらレオには追い越されちゃいましたね」
ルネがからかうと、マクシムはふたたび渋い顔をした。だが悪戯を思いついた子どものように、瞳をきらりと輝かせる。
「そう言うルネはさ、結婚とか考えないの? まだ若いんだし、恋人とかさ……お前って、結構モテるだろう? うちの事務員で、いつもニコニコして可愛らしい子いるのわかる? 長い黒髪のさ。どうやらお前に気があるらしいぞ?」
「結婚するつもりはないです。恋人も、別に要らないかなって」
きっぱりと答えると、マクシムは大袈裟にショックを受けた顔をした。
「ええー、あんなに可愛い子をもったいない。うちの学校はな、若い女の子を滅多に雇わないんだ。このチャンスを逃したら、もうつぎはないかもしれないんだぞ?」
なぜか自分のことのように悔しがるマクシムに、ルネは呆れ顔をした。
「正直言って恋愛なんて、している暇がないですからね」
「でもさぁ、いつまでも独り身じゃ寂しいだろ?」
――独り? ルネは微笑んだ。
その言葉がすでに他人事のように思える。あれだけ騒がしい〈家族〉がいるのに、独り、だなんて。
「俺は今が一番幸せだから、この幸せが続けばそれで十分です」
胸を張ってそう言った。心からそう思えることが幸せだと思う。
会計を済ませ店を出るとほぼ同時に、数軒先の店からひと組の夫婦が出てくるのが見えた。
豪華な乳母車を押す女性と、恰幅のいい金持ちそうな身なりの男だった。その男の視線が、ルネの姿を認めた瞬間ぴたりと動きを止めた。
「――ルネ?」
見知らぬ男の口から自分の名が飛び出し、驚いたルネも足を止めた。
そう言われるとどこか見覚えのある、丸々とした顔だった。慌てて古い記憶を引っ掻き回し、あっ、と小さな声を上げた。
――サミュエルだ。ルイ=ル=グランで、呆れるほど自分に嫌がらせをした、同級生のサミュエル。
あの頃よりさらに縦にも横にも大きくなり、立派な口髭まで生やしている。いかにもブルジョワらしい堂々とした体躯は、遠くからでもよく目立っていた。
「あれ? サミュエルじゃないか? おおい、久しぶりだな!」
隣にいたマクシムが、ルネより先にサミュエルの元に駆け寄っていく。
「お前、ずいぶん立派になったなぁ。一瞬誰だかわからなかったよ。縦にも横にもでかくなりやがって!」
「ゴーシェ先生ですか! ご無沙汰しております。お元気でしたか?」
「ああ。今そこでルネと一緒に飯食っててさぁ」
マクシムはそう言いながら、ルネの方を振り返った。だがルネはその場を動こうとしない。
「お前結婚したんだな、おめでとう! ガキだとばかり思ってたのに、俺より先に父親になるなんてさぁ! ……どれどれ、うわぁ、小さくて可愛いなぁ」
マクシムはサミュエルと雑談をしながら、にこにこと乳母車を覗き込んでいる。だが、サミュエルがちらちらとルネの方を窺っていることに気づくと、ふと喋るのをやめた。
「そうだ。同級生同士、久々の再会を祝してゆっくり話でもしたらどう? じゃあ俺は先に戻ってるから」
マクシムはサミュエルの肩を叩き、そそくさと校舎に戻っていく。同じように、サミュエルの妻も気を遣ったのか、サミュエルに声をかけ逆方向へと向かった。
ふたりがその場を去ると、サミュエルは足早にルネに近づいた。
「――偶然だな。卒業以来か。お前、どうしてゴーシェ先生と一緒にいるの?」
サミュエルはおずおずとルネに話しかける。ルネは校舎の方を軽く顎でしゃくった。
「――先生も俺もあそこで教えてるから。いま、昼休み」
そっけなく答えると、サミュエルの顔に感心するような笑みが浮かんだ。
「そうか! その歳でもうリセの教授なんだな。やっぱりお前ってすごいよ、昔から飛び抜けて頭が良かったけど」
突然そんなふうに馴れ馴れしくされても気分が悪いだけだ。
ルネはサミュエルに背を向け、早々と学校へ戻ろうとした。その背中に、サミュエルは慌てて声を張った。
「ルネ――! ずっと、お前に謝罪しようと思ってたんだ!」
ルネはちらりと振り向き、サミュエルに冷ややかな視線を投げた。丸々とした額には丸い脂汗が浮かんでいる。
「本当に悪かったよ! あの頃は俺も子どもで、相手の気持ちも考えず、馬鹿なことをしたと思ってる!」
「いまさら、何のつもり?」
ルネの冷淡な態度にサミュエルは少したじろいだ。だが必死に言葉を繰り出し続ける。
「ずっと謝ろうと思ってたんだ。でもお前が俺を無視するし、そのうち飛び級してあまり顔も合わせなくなって――」
「何? 俺のせいだって言いたいの?」
「そ、そうじゃない! 俺が卑怯で臆病だったからいけなかったんだ。ぜんぶ俺のせいだよ。本当に悪かった」
サミュエルは俯き、厚いくちびるを噛み締めた。たしかにその姿は、心から反省しているようにも見えるが。
ルネは数歩近づき、真正面からサミュエルを見据えた。
(お互いいい大人だ。過去の遺恨なんてさっさと水に流して、素直に謝罪を受け取ってやればいい。そうしてやることもできる。だけど――)
ルネは胸の中で思案した。
「一度謝ったくらいで、すべてなかったことにできると思うなよ」
ルネの口から飛び出した言葉に、サミュエルの顔がすっと蒼ざめる。その表情を見たルネは、口の端をにやりと持ち上げた。
「いつか、正式に謝罪する場をもうけてやる。その日まで反省しながら待ってろ」
顔面蒼白のサミュエルを置き去りにし、ルネは校舎の玄関口へと向かった。
その日は、日の暮れぬうちに自宅へと帰った。エミリーは応接間のソファの上で人形遊び、ジャンは窓辺で猫の絵を描いている。
ふたりがこの家にやって来てから、応接間は第二の子ども部屋と化していた。
「おかえり、パパ・ルネ! 今日は早かったね」
ルネの姿に気づいたジャンが顔を上げる。エミリーもそれに気づき、人形を放り出してルネに飛びついた。
「パパ・ルネ。一緒にお人形で遊んで!」
いつの頃からか、ふたりは養父であるルネに敬意を込め、「パパ・ルネ」と呼ぶようになっていた。最初はひどく気恥ずかしい思いをしたのに、呼ばれているうちに案外慣れてしまうものだ。
ちなみにアンリに対しては、いまだにアンリだ。アンリが子どもたちにそう呼べと言ったそうだ。
ルネはエミリーを抱き上げ、ソファに腰を下ろした。金色のまつ毛を羽のようにしばたたかせ、エミリーはルネの顔を覗き込む。
「アンリはいつ帰ってくる?」
「今夜遅くには帰ってくるはずだよ。明日はお休みだから、みんなでどこかに遊びに行こうか」
そう提案すると、エミリーの水色の瞳がぱっと輝いた。ジャンも手に持っていた木炭を放り出してソファに飛び乗ってくる。
アンリは数年前からフランス・クチュール(注文服)組合に出入りしており、すでにフランスのファッション業界の影の立役者だ。
アンリの主な仕事は国内外の大富豪や王侯貴族のもとに自ら出向き、オートクチュール製品の販路を開拓することらしい。さらに駆け出しのクチュリエ(デザイナー)を彼らに引き合わせパトロンとなることをお願いしたり、大々的な展示会や国際的なファッションショーを開催するとなれば彼らのもとに資金調達に回る。
オートクチュール・メゾンの支店を海外に出店するときにも、アンリはよく同行する。とにかくどこに行ってもよく顔が利き、話をまとめるのも資金を引き出すのも上手いので、組合から重宝されているようだ。
「あたし、ボン・マルシェにお人形買いに行きたいなぁ」
早速甘えた口調でエミリーがねだる。
「駄目だよ、人形はこの前買ってやったばかりだろう? どうせアンリがまたお土産を買ってくるんだし」
ジャンも負けじと横から身を乗り出した。
「俺、ブローニュの森で自転車に乗りたいよ」
「嫌だ! あたし、まだ乗れないもん!」
すかさずエミリーが反対の声を上げる。
「エミリーもちょっとは練習すればいいだろ!」
「あたしはお買い物に行きたいの! じゃあ新しい靴を買って、パパ・ルネ」
「靴だってこの前買ってやったろ。服だって、アンリが作ってくれた新しいやつがあるんだし」
するとジャンはふたりのあいだに割って入り、エミリーを睨みつけた。
「俺は絶対買い物になんてついていかないからな! ひらひらのスカートなんて見ても、ちっとも楽しくない!」
「それならジャンはお留守番していればいいじゃない! あたしはパパ・ルネとアンリと三人で行くんだから」
「なんで休日なのに俺だけ留守番なんだよ! パパ・ルネ、公園の方が絶対楽しいよな!?」
最近は、何かを決めようとするたびふたりの板挟みになる。男の子と女の子では趣味も遊び方も違うのだから仕方ないのだが。
「はいはい、喧嘩はおしまい! じゃあ明日、アンリに決めてもらうことにしよう!」
そう言って切り上げると、ふたりは、いーっと歯を出して睨み合った。
子どもというものは、放っておくとどんどん我儘に貪欲になるらしい。でもこうして遠慮なく好き勝手言えるのは、すっかりこの家の子になった証拠なのだろう。
甘やかしている自覚もおおいにあった。だがそんな迷いが吹き飛んでしまうほど、子どもの喜ぶ顔を見るのはいいものだとしみじみ思う。
思えば主人も、ルネがねだればたいていのことは叶えてくれた。――そばにいたいという願い以外は。




