地下の怪人(1)
春の日差しに温められた教室に、たくさんの頭がゆらりゆらりと揺れる。船を漕ぐとはよく言ったものだ。皆、心地よく微睡みながら、明るい波の狭間を漂っている。
「――leniter arridens Scipio, St! quaeso, inquit, ne me e somno excitetis, et parumper audite cetera(――スキーピオーは穏やかに微笑みかけ、『どうか静かに』と、『私を眠りから起こさぬように。そしてしばらく残りの話を聞いてください』と言った)」
そこまで読み上げたルネはテキストを机に置き、ふいに教壇から立ち上がった。真っ直ぐ窓辺へと向かい、勢いよく窓枠を引き開ける。
途端に、まだどこか冷たい春先の風が津波のように教室に流れ込んだ。その冷風に煽られ、沈んでいた学生たちの頭がつぎつぎに飛び起きる。
「――ルネ先生、寒いです!」
早速、学生のひとりが文句を言った。
この学校――リセ・コンドルセの学生は、裕福な家庭の子息が多い。そのせいか態度が横柄で、我儘で、平然と教師に楯突く。相手が新米教師であればなおさらだ。
「文句を言うなら、寝るんじゃない!」
「寒くて風邪引いちゃうってば!」
「ルネくん、窓を閉めてよ、お願い」
「ラテン語って子守唄より熟睡できるよな」
つぎつぎにふざけはじめる学生たちを、ルネは、うるさい!と一喝した。
「お前らのなまりきった頭が冴えてちょうどいいだろ!」
声を上げたと同時に授業終了の鐘が鳴った。学生たちは担任教師の合図も待たぬまま席から立ち上がり、大騒ぎをしながら教室を飛び出していく。――給食の時間だ。
ルネは短いため息を吐き、ラテン語の辞書とテキストを片手に抱えた。
一九一〇年、春。ルネはリセ・コンドルセのプティ・リセで、初学年である第六年級を教えていた。
エコール・ノルマル(高等師範学校)の最終年度、ルネは国家資格であるアグレガシオン(高等教育教授資格)を一位の成績で取得した。その後、去年の九月にリセ・コンドルセの教授職に就き、初めての仕事に右往左往しているうち、あっという間に半年が過ぎた。
リセ・コンドルセはオペラ座の北、パリ屈指の高級住宅街ショセ=ダンタン地区に校舎を置いていている。創立以降、学生数が徐々に膨れ上がると、それを解消するため一八八三年、本校舎から少し北に新校舎が建てられた。
新校舎はプティ・リセと呼ばれ、リセ・コンドルセの学生のうち低学年層のみがそちらに通うことになっている。
第六年級に所属する学生は、十歳から十代前半。皆、腕白で生意気で、手に負えない。
廊下へ出ると、隣の教室からひょろりと背の高い青年がひどく疲れたようすで現れた。ルネの姿に気づくと細長い腕を持ち上げ、枝のようにひらひらと揺らす。
「おーい、お疲れさま」
「お疲れさまです、ゴーシェ先生」
ルネが小さく頭を下げると、マクシム・ゴーシェは鷲鼻に皺を寄せて笑った。
「だからもう、マクシムでいいってば。立場は同じなんだからさ」
ルネがリセ・ルイ=ル=グランの低学年だったときに生徒監督を務めていたマクシムだ。
マクシムは猛勉強の末、リサンス(学士号)を取得、三年前にアグレガシオンに合格し、リセ・コンドルセに職を得た。現在は第五年級を担当しており、いまではルネの良き先輩教師である。
ふたりは並んで食堂へと向かいながら、同時に深いため息を吐いた。
「……どうだ、この学校には慣れたか」
「控えめに言っても、クソガキばかりです」
「そうだろうな。やっとお前も俺の苦労がわかっただろ」
「ええ、身に沁みてわかります。あの頃に戻れるなら、先生の睡眠時間を削るような愚かな真似は絶対にしないですね」
ふたりは顔を見合わせ、肩を震わせて笑った。するとマクシムは、急にぴたりと足を止めた。
「――そうだ。今日は外に食いに行くか? お前も午後の授業なかったよな?」
「ないですけど……もちろん先輩の奢りですよね?」
悪戯な目で見上げると、マクシムは恐れ慄き、一歩後ずさった。
「……そうだな! 先輩だからな! 給料は変わらないけどさ!」
ふたりはそれぞれ荷物を部屋に置きに行き、財布を持って校舎を出た。
サン=ラザール駅へ続くこのアムステルダム通りには、多くの飲食店が軒を連ねている。ふたりは適当なビストロに入り、窓際のテーブルについた。マクシムは迷うことなく鶏のクリーム煮込みを、ルネは少し迷った末に豚肉のコンフィを注文した。
穏やかな春の日差しが、燦々と窓から差し込んでいる。マクシムは頬杖をつき、目の前のルネの姿をぼんやりと眺めた。そこに見えるのは、あの頃の人に懐かない痩せた野良猫のような少年ではなく、少し影のある聡明で美しい青年の姿だ。
「お前とこうしているの、今でも不思議な感じがするよ。まさか俺たちが同僚になるなんてさ。時の流れは残酷だな」
マクシムの正直な感想に、ルネは軽く吹き出した。
「そうですね。あの頃は、まさか先生と同じ職場で働くことになるなんて、夢にも思いませんでしたけど」
マクシムは腕を組み、不服そうにくちびるを突き出した。
「お前が優秀すぎるから、こっちは追い越されないように必死だよ。あのときお前に発破をかけるんじゃなかったかなぁ。でも、どうにかぎりぎりのところで先輩の面子は守りきったぞ」
「これから先はわかりませんよ?」
挑発するようにそう言うと、マクシムは苦々しく顔をしかめた。
「そうなりゃこんどはルネに昼飯奢らせるからな。覚悟しとけよ」
極上のブイヤベースをご馳走しますよ、とルネは笑う。
テーブルに注文の料理が届き、ふたりはナイフとフォークを取り上げた。
「……ルネって、いまいくつだっけ?」
鶏肉を頬張りながらマクシムが尋ねる。
「二十三です」
改めてルネの年齢を聞き、その若さに驚愕したマクシムは目を白黒させた。
「えっ、俺が生徒監督やってたのと同じ歳かよ! いやぁ、まいったな。俺なんてそろそろ三十一だぞ」
「そろそろご結婚されないんですか?」
豚肉をナイフで切り分けながら、ちらりとマクシムを見上げる。
「……するよ。そろそろ呼び寄せるから、結婚式には来てくれよ」
マクシムは地元のノルマンディーに長いあいだ恋人がいた。無事教職に就き、仕事が落ち着いたらパリに呼び寄せると約束していたのに、もたもたしているあいだに三年が経過してしまったらしい。
照れ臭そうなマクシムの顔を見て、ルネは祝福の笑みを浮かべた。
「おめでとうございます。家に奥様がいれば、今より少しは太れますね」
「そう願いたいよ」
マクシムは気まずげに白ワインを口に含むと、ルネをじっと見返した。
「……そういやお前ってもう父親なんだよなぁ。お前の人生って、人の数倍の速さで流れていくのな」
ははっ、とルネは笑い声を上げる。
ルネが引き取ったふたりの孤児――ジャンはもう十三歳になり、エミリーは六歳だ。今年度から家の近くの小学校へ通っている。
「可愛いですよ、子ども。毎日忙しくて息をつく暇もないですけど」
「へえ、いいなぁ。俺も早く欲しいよ。やっぱり男の子と女の子、ひとりずつかなぁ。うーん、三人……四人、はさすがに多いよなぁ」
マクシムはぶつぶつ独り言を言い、目許を綻ばせる。その姿を見て、思わずルネも笑みをこぼした。
マクシムならきっと、いい夫にもいい父親にもなるだろう。大勢の子どもに揉みくちゃにされるマクシムの姿が、見てきたように目の前に浮かんだ。
「――そういえば、レオナルド、覚えてます? イタリア人の。結婚したらしいですよ、ヴェネチアの幼馴染と」
おお!とマクシムは目を輝かせた。
「覚えてるよ! あいつはお前と違って、聞き分けのいい優等生だったなぁ。ルイ=ル=グランの卒業後は、イタリアの大学に進学したんだっけ?」
ルネは頷いた。レオナルドはイタリアの名門校ローマ大学の哲学部を主席で卒業し、今年度からヴェネチア大学の助教授に就任した。
その後、地元の幼馴染と結婚式を挙げたのだという手紙が少し前に届いた。




