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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
40/50

ふたりの子ども(5)

 それから一ヶ月も経つ頃には、ふたりは新しい生活にすっかり慣れた。特にエミリーはまだ幼いこともあり、まるで元からこの家の娘であったかのようにルネとアンリに懐いた。

 だがジャンは今でもときどき夜泣きをする。泣きながら目が覚めてしまったときには、必ずルネの部屋にやって来た。

「……ジャン、眠れないの? こっちにおいで」

 黒い睫毛を涙で濡らし、ドアの隙間から顔を覗かせるジャンをルネは優しく手招いた。

 読んでいた本を脇に置き、布団を捲り上げると、その隙間にジャンは素早く身体を滑り込ませた。

 シラミだらけでぼさぼさだった黒い髪は念入りに洗い、櫛で梳かして切り揃えてやった。いまはもう、どこから見ても浮浪児には見えない。聡明そうな眉をしたきれいな子だ。

 ジャンはルネの胸に顔を埋めた。

「……別に寂しくなった訳じゃないから」

「はいはい」

「……ルネがひとりで寂しがってるかなって思ってさ」

「わかってるよ。ありがとう」

 ジャンの不器用な甘え方がいじらしく、思わず笑みがこぼれてしまう。ルネはその痩せた身体を、胸の中にぎゅっと抱きしめた。

「俺もね、主人と一緒に暮らしていた頃は、主人がひとりぼっちで寂しがっているんじゃないかなっていつも心配してたんだ。だから俺がずっとそばにいてやらなきゃと思ってた」

「ルネの主人ってどういう人なの?」

「――ヴァンピールだったんだ」

 思いもよらぬ返答だったのだろう、ジャンは黒い瞳を見開いた。

「本当に? ヴァンピールなんて、ただの作り話だろ?」

「ううん。俺はね、この家でヴァンピールに育てられたんだよ」

 そう言うと、ジャンの黒い眉が怯えるように歪んだ。

「……その人、ルネの血を飲んだの?」

「ううん、一度も飲んだことはなかったよ。パリ中に美人で金持ちの愛人がいてね、その人たちのところに飲みに行くんだ」

「何それ。ヴァンピールってすごいや」

 信じたのか信じていないのか、くすくすと肩を震わせて笑う。

 するとジャンは、ルネの胸にぎゅっとしがみついた。

「――ルネの大切な人は、ルネを置いてどこに行っちゃったの?」

 その質問が少し、胸に痛い。

「わからない。ヴァンピールは歳を取らないから、ずっと一緒にはいられないんだ。でもいつか必ずこの家に帰ってきてくれるって信じてる」

 そう答えると、ジャンはしばし沈黙した。髪を撫でていると、やがて消え入りそうな声が心臓の奥に響いた。

「――ルネは、俺たちとずっと一緒にいてくれる? 離れていったりしないよね?」

 それは何度も何度も、埋められない不安を投げつけるように、ルネが主人に尋ねた言葉だった。泣きながら自分にそう尋ねる子どもにそれを約束してやれないことが、どれほど辛く苦しいことなのか、主人と同じ立場になってようやくわかる。

 胸にしがみつく幼い背中をぎゅっと抱きしめ、柔らかな髪に顔を埋めた。

 主人がしたくてもできなかったことを、自分はこの子にしてやれる。その不安を受け止め、そばにいると約束することを。

 それをしてやれるということが、どれほど幸福なことなのか。

「絶対に離れたりしない。この先もずっと、ジャンとエミリーのそばにいる。約束するよ」

 安心して眠りにつくまで、何度でも何度でも、そう言ってやろう。




 十二月に入ったある日、アンリが大きなもみの木を背負って家に帰ってきた。子どもたちは目を輝かせ、大騒ぎしながらもみの木を飾りつけた。

 応接間の暖炉の上に、三つのサントン人形を飾る。聖母マリアとヨセフと子羊――マリー=アンヌの遺品としてルネが持ち帰ったものだ。

 ルネにとっても子どもたちにとっても、これほど丁寧にノエルを迎えるのは生まれて初めてのことだった。

 ふたりには内緒でボン・マルシェ(パリに創業したデパート)にプレゼントを買いに行く。エミリーにはきれいな服を着たお人形を、ジャンには新しい靴と美しい画材を買った。

 偶然だとは思うが、ジャンも主人と同じように絵を描くのが好きらしい。エミリーはマリー=アンヌと似て歌がとても上手だ。

 二十五日の朝、ふたりはクリスマスツリーの根元に置かれたプレゼントの箱を見つけた。それを目にした途端、まるで悲鳴のような歓声を上げ、部屋の中を飛び回って喜んだ。

 その日はモンテスキュー家の料理人が出張し、ご馳走を作ってくれた。

 スモークサーモンとフォアグラを使った前菜。生牡蠣とエスカルゴ。腹の中に野菜やレバーをぱんぱんに詰め込んだ、七面鳥の丸焼き。そして人気のパティスリーで買った、輝くようなブッシュ・ド・ノエル――

 足元がふわふわと宙に浮いているみたいだった。

 色鮮やかなクリスマスツリー。山のようなご馳走。星が瞬くような、子どもたちの笑い声――あまりに明るくあまりに幸福な光景。気を抜いた途端、目の奥がじんと熱い。

 ワインに顔を赤らめたアンリが、機嫌よく椅子から立ち上がる。

「よし、歌え、エミリー!」

 エミリーはソファに飛び乗り、得意げに胸の前で両手を組んだ。

 声高らかに歌いはじめたのは、レ・ザンジュ・ダン・ノ・カンパーニュ(荒野の果てに)というフランスの伝統的なキャロルだった。

 透き通る歌声が、暖炉に温められた部屋の中、光のように舞い上がる。

「エミリーはやっぱり歌が上手いな! 将来は歌手になれるぞ!」

 アンリは手拍子を取りながら、晴れ渡る空のように笑う。ジャンもエミリーの隣に飛び乗り、明るい歌声を重ねた。

 ふと、暗い窓の外に目をやった。天使の羽のような雪片が、音もなく降りはじめている。

(――ねえ、オーギュ。どこかで俺たちを見ている? 俺にこんなに素敵な家族ができたよ)

 だからどうか早く帰ってきて。この家でずっと、みんな一緒に待っているから。

 ルネは舞い降りる雪に祈りを乗せ、その歌声に加わった。



  羊飼いたちよ、身を隠すのをやめよ

  天使たちの合唱に加われ

  汝らの優しき風笛もって 

  天の歌が終わることなく続くように

  いと高き処、神に栄光あれ




《第三章 夜霧に灯る 完》


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