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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第一章 華の都の紅い夜
4/50

吸血鬼と老婦人(4)

 浴室のガラスの壁は湯気で白くけぶり、蝋燭の火をゆらゆらと映していた。

 洗い終えた主人の髪に、薔薇の香油を振りかける。華やかな香りが湯気に乗り、緩やかな渦を巻いた。

 石膏のような背中に、濡れた黒髪が張りついている。ルネはそれを掻き分け、すうっと指先を滑らせた。

 薄い皮膚の下には、いつも冷えた血の気配がする。

 それを見るたび、主人はもともとこうだったのだろうか、それともヴァンピールだからなのだろうか、とルネは考える。陽の光を浴び、大声で笑い、腹一杯になるまで飯をかきこんでいたような時代が、果たして主人にはあったのだろうかと。

 でも、そんなのはオーギュじゃない――ルネは心の中で首を振った。

 あの夜、自分を救ってくれた漆黒の影。それはこの世の善悪を離れ、神よりもたしかであり、ただひとつ自分に手を差し伸べてくれたものだった。

 浅くぬるい湯の中、ルネは膝立ちになった。主人の脇に両腕を通し、薄い背中に身を預ける。黒髪のあいだに覗く白いうなじにくちびるを寄せ、口を大きく開けた。

 すっかりヴァンピールになったつもりで、勢いよく噛みついた。主人はぴくりと身を強張らせたが、ルネを振り払いはしなかった。

 ゆっくりとくちびるを離す。その生白い首筋には、薄紫の噛み痕が点々と円を描いて残っていた。

 主人はちらりと背後を振り返り、呆れたように息を吐いた。

「……早速ヴァンピールごっこか?」

「予行練習だよ」

「それならもっと優しく吸いなさい。相手が怖がる」

 主人は身体の向きを変え、ルネと向かい合った。長い脚のあいだにルネを抱え、金の髪を指で梳く。

 ルネは十四にしては背が低く、痩せっぽちだった。それは孤児院育ちにはお決まりの、長年の栄養不足のせいだった。

 ルネを見つめる蒼の瞳が、突然甘い熱を帯びる。女を口説くときにする眼つきだった。端から見ていたことは幾度もあるが、それが自分に向けられたのは初めてだった。

 絡みつくような熱に戸惑い、ルネは視線を落とした。逃げ出したいのか、ずっとこうしていたいのか、自分でもよくわからなかった。

 しんと静まる浴室に、自分の鼓動ばかりが耳にうるさい。顔が熱いのは、湯にのぼせたせいじゃないことだけはわかっていた。

 主人の長い指が、俯くルネの頬を優しく包む。濡れた髪から滴る雫が、ぽつりぽつりと水面を打ち、小さな波紋が重なっていく。

 見えない左目の上に、主人のくちびるが触れた。冷たいはずのくちびるに、どうしてなのか熱を感じた。その熱が、じわりと目の奥へ沁み込んでいく。

 くちびるが静かに移動していく。額へ。頬へ。白い貝殻のような耳朶へ。

 ――そしてくちびるが、ルネの首筋に落ちた。

 全身に、痺れるような緊張が走る。

 実を言えば、まだ一度も主人に血を吸われたことがない。それを不審に思いながらも、どことなく怖いような気持ちが先立ち、その訳を問い質したこともなかったのだ。

(――吸われたって構わない。ずっと一緒にいたのに吸われなかったのが不思議なくらいだ)

 覚悟を決め、ぎゅっと瞳を閉じた。瞼の裏に広がる、漆黒の深い闇――

 真っ暗な体内で沸き返った血潮が、どくどくと脈を打つ。

 だが、主人は牙を立てなかった。ただ首筋を強く吸い、薄いくちびるをゆっくりと離した。

 驚きと困惑で表情を固めたまま、主人の顔を見返した。そんなルネの顔を見て、主人は口の端に笑みをこぼした。

「どうした。怖かったか?」

「あっ……ううん、違う。怖いわけじゃ――」

 主人はルネをからかうように、淡く色づいたその頬を指の甲で撫でた。

「そろそろ上がろうか。湯も冷めてしまった」

 主人は先に浴槽から出て、木綿布で素早く身体を拭いた。裸のまま浴室の扉を開け、屋敷の中へと入っていく。

 ルネも続いて身体を拭き、脱ぎ捨てた服を拾い集めた。使用人を雇わないので、汚れた服を洗濯屋に出すことも、生活に関わる家事全般はルネの役目だった。

 主人の姿が見えなくなると、ルネは浴室の壁に掛けられた鏡の前に立った。集めた服を片腕に抱え、湯気で曇った鏡面を掌で拭う。

 拭った先に、裸のままの自分が現れた。

 左目を覆う金の髪。ひとつだけの灰青の瞳。血の気のない薄いくちびる。貧相に浮き出た頼りない鎖骨――

 見るからに不健康そうな、痩せっぽちの身体。

 水の滴る襟足をかき分け、左の首筋を確認した。その生白い肌には、薄紅をした吸い痕がじんわりと滲んでいた。

 ルネは主人の後を追い、暗い屋敷の中へ小狐のように駆けていった。




 翌日。ルネはオムニビュスの屋上席アンペリアルから身を乗り出し、流れゆくパリの街並みを眺めていた。オムニビュスとは、時刻表にしたがい決められた路線を走る、二階建ての乗合馬車のことである。

 昼前に家を出て、サン=ジェルマン・デ・プレ教会前でオムニビュスに乗り、セーヌ右岸に出た。そこで、ルーヴル宮北側からシャン=ゼリゼ大通りへと向かう路線に乗り換える。

 休日の今日、ルネがひとりで外出したのは、主人から「お使い」を頼まれたからだ。そのお使いとは、主人の愛人かつパトロンヌである、モンテスキュー伯爵夫人マリー=アンヌのご機嫌伺いである。未亡人であるマリー=アンヌは、現在パリ市の西、ブローニュの森近くの大邸宅に少しの使用人とともに暮らしている。

 マリー=アンヌの年齢をはっきりと聞いたことはないが、おそらく七十は越えているだろう。かつてはパリ社交界の華であったが、とうの昔に引退し、それ以来健康のためにと貴族特有の夜型生活を改めた。いまや老人らしい早寝早起きが習慣で、朝日と共に起床し、日が沈めば寝てしまう。それゆえ、夜にしか活動できないヴァンピールと会える時間はほとんどない。

 だが、ルネは知っていた。日没後の早い時間に主人の姿が見えないときは、たいていマリー=アンヌの屋敷に出向いているのだということを。

 どうやら主人はマリー=アンヌの寝室まで飛び、彼女が眠りにつくまでただ添い寝をしているらしいのだ。もうだいぶ前から、血を吸ったりもしないのだという。

 その話を初めてマリー=アンヌから聞いたとき、ルネは耳を疑った。

 マリー=アンヌは悪戯な瞳でこう言った。

「私が最後に血を吸われたのはいつだったかしら。かれこれ三十年近くは昔でしょうね。そのときだって、私の方から血を吸ってほしいとお願いしたのよ。彼は嫌がったけれど、これで最後にするからってしつこく何度もお願いをしてね」

 そのときに確信したのだ。主人のマリー=アンヌに対する扱いは、他の愛人たちとは天と地ほど違う。マリー=アンヌは主人にとって、ただひとり「特別」なのだと――

 たしかにマリー=アンヌは特別だった。彼女は主人がヴァンピールであることを知りながら、長いあいだ金銭面、精神面の両方から彼を支え続けた唯一の人間だった。主人の言葉の端々から漏れるマリー=アンヌへの細やかな気遣いや混じり気のない尊敬に、ルネは薄々気づいていた。

 そもそも愛人などという俗っぽい言葉を当てるべきではないのかもしれない。主人にとってのマリー=アンヌとは、恋人というより母親に近い、いや母親よりも神聖で絶対的な――聖母マリアのような存在なのかもしれないとルネは思うのだ。

 ルネを乗せたオムニビュスはチュイルリー公園を左手に進み、コンコルド広場へ出た。視界を遮るもののない広々とした広場に出ると、世界一の高さを誇るエッフェル塔の頭が、遠くににょきっと姿を現した。

 エッフェル塔はルネが生まれた頃に建設がはじまり、たったの二年で完成した。だがルネは、拾った新聞や街角のポスターでその存在を知るだけで、長いことエッフェル塔の実物を見たことがなかった。

 ルネの育った孤児院はパリ市の東の外れにあった。いくらエッフェル塔が世界一の高さを誇ると言っても、街外れの貧民街まで気前よく姿を見せてはくれなかった。あの頃のルネにとって、エッフェル塔のあるパリ中心部は、外国と変わらないほど遠かった。

 初めてエッフェル塔の実物を見たのは、ちょうど一年前のこと。主人に孤児院から連れ出され、貴族街の幽霊屋敷で暮らしはじめて、まだ間もない頃だった。


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