ふたりの子ども(4)
数日が経つと、エミリーはすっかり回復した。元気を取り戻したエミリーはおませで明るい可愛い子で、家にぱっと明かりが灯ったようだった。
ジャンは懲りずに悪戯を繰り返し、日に何度もルネに追い回された。
ルネはふたりの子を自分の前に座らせ、ふたつの小さな手を握りしめた。
「ジャンはお父さんに会いたい?」
そう尋ねられたジャンは、はっと目を丸くした。
「……だって、生きてるかどうかわからないし」
「もし生きているなら、お父さんを探してほしい?」
くちびるを噛み締めるジャンの瞳に、怒りと涙が滲んでいる。
「わかんねえよ……もし生きているんなら、俺たちを放り出したことが許せないし、もし死んでるなら……俺たちを残して勝手に死んだことが許せない」
ジャンの黒い瞳がゆらゆらと揺らぐ。頭を撫でてやると、ぽろりと一粒涙が伝った。
「辛いことを聞いてごめんね。でも俺はジャンのお父さんを探してみようと思うんだ」
えっ、とジャンは驚いて顔を上げた。
「それでもしお父さんが見つかったら、ジャンはお父さんのところに帰りたい?」
ごしごしと涙を拭う兄の顔を、エミリーは不安げに見つめている。
「だからそんなの、わかんないってば」
「あのね、ジャン。俺は、孤児院で育ったんだ。だから家族がいないんだよ」
そう告白すると、ジャンは真っ赤になった目を見開いた。
「えっ……だって、ルネはこの家で生まれたんじゃないの? アンリはルネの兄さんだろ?」
「ううん、違うよ。アンリは俺の一番の親友。この家はね……もともとモンテスキュー伯爵夫人のもので、その人が貸してくれたんだ。俺は十三のときにここに連れて来られて、家族みたいな人と暮らしてた」
「家族みたいな人って誰のこと?」
「俺を孤児院から救い出してくれた人」
「その人は今どこにいるの?」
ジャンの率直な問いに、かすかに胸が痛んだ。
「……ちょっと複雑な事情があって、三年前にここを出て行っちゃったんだよ。でもいつか戻ってきてくれるって信じてる。きっと遠くから俺を見守ってくれているはずだから」
そう答える声がかすかに震えた。
ジャンはそれに気づいたようで、ルネの掌をぎゅっと握り返した。その力強い温かさがルネの心を奮い立たせる。
「だからね、ジャン、エミリー……よかったら俺の〈家族〉になってくれないかな? ひとりでその人の帰りを待つのがとても寂しいから」
その言葉の意味を、すぐには呑み込めなかったらしい。ふたりはぽかんとルネを見上げた。
「……俺たちとルネが、家族?」
「もしね、ジャンのお父さんが見つからなかったら……代わりに俺が君たちのお父さんになりたいんだ」
目を白黒させるジャンに、ルネは力強く微笑んだ。
「それでふたりがずっとここにいてくれたら、俺はとっても嬉しい」
そうしてルネは主人の捜索を中断し、ジャンの父親を探しはじめた。市庁舎に問い合わせ、警察に捜索願を出し、近隣の住民にも行方を聞いて回った。
そして一ヶ月も経つ頃、ジャンの父親の特徴と身元不明の遺体が一致したとの報告が警察から届いた。
死因は急性アルコール中毒。モンマルトルの狭い路地裏に倒れていたという。遺体はすでに、パリ市北東の小さな共同墓地に埋葬されていた。
ルネはふたりを連れ、その墓地へ向かった。墓標は死亡した日付と番号が振られただけの簡素なもので、同じ十字の墓標が整然と等間隔に並んでいた。
役所で教えられた番号の墓標の前で立ち止まった。ジャンはルネが買ってきた花束を墓に供え、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。
「……ジャン、大丈夫?」
そう声をかけると、ジャンはちらりとルネを見上げ、また顔を伏せた。
「……ルネ。俺さ、父ちゃんを恨んでたんだ」
ぽつりぽつりと、ジャンは話し出した。
「もともとアル中だったけど、エミリーの母ちゃんが死んでから、ますます酒の量が増えて……仕事だってまともにしないし、すぐに大声で怒鳴り散らすし、殴られたことだって何度もある。あちこちに借金作って、近所にも迷惑かけてばかりで、こんな父ちゃん恥ずかしいし、ずっと嫌だって思ってて……」
ルネはエミリーを抱いたまま、ジャンの隣に腰を下ろした。
「……死んじゃえばいいのに思ってたんだ。こんな父ちゃんなら居ないほうがましだって、早く死んじゃえってずっと思ってて、それなのに――」
そこでジャンは言葉を切った。ぎゅっと引き絞った口許が、ふるふると震え出す。
その背中を抱き寄せた途端、ジャンは大声を上げて泣きはじめた。エミリーも兄につられるように、声を上げて泣きはじめる。
誰もいない昼間の墓地に、ふたりの子どもの泣き声が頼りなく響き渡った。
泣き疲れて眠ったエミリーを左腕に抱え、もう片方でジャンと手を繋ぎ、夕暮れの墓地を後にした。ジャンは真っ赤になった目許を何度も擦り、オムニビュス(乗合馬車)に乗るまでずっとばつが悪そうにしていた。
がたがたと馬車に揺られ、流れゆくパリの街並みをふたりでぼんやり眺めた。パリの中心部へと戻ってきた頃、ジャンの口からようやくぽつりと言葉が漏れた。
「……あんなに涙が出るなんて思わなかった」
「……当たり前だよ。家族なんだから」
そう答えると、ジャンは思いがけないことをルネに聞いた。
「もし俺が死んだら、ルネは泣いてくれる?」
「――何てことを言うんだよ! ジャンが俺より先に死ぬわけがないだろ!」
思わず大声で言い返すと、周りの乗客が不審げな目を向ける。ルネの気まずそうな顔を見て、ジャンにようやく笑顔が戻った。
「死んだときに泣いてくれる人がいるのって、何だかいいなと思ってさ」
「だからジャンは俺より先に死んだりしないって。俺の方が年上なんだから」
ムキになって言い返すと、ジャンの瞳に悪戯な笑みが浮かんだ。
「じゃあルネが先に死ぬときには、俺が泣いてやろうか?」
思いがけない言葉に思わず息が止まった。
「俺、ルネの家族になってやってもいいよ」
ジャンはそう言って、にかっと笑った。先日乳歯が抜けた口の端に、気の抜けたような隙間があった。
その笑顔が眩しくて、目の奥が急にじんと痛い。
「……ジャンがそう言ってくれて安心した。じゃあこれからも、よろしくお願いします」
改まって頭を下げると、ジャンもかしこまった顔をして、こちらこそお願いしますと頭を下げた。何だか無性におかしくて、ふたりで一緒に笑った。
その日の夜は、狭いベッドに三人で寝ることにした。ルネの胸の上に倒れ込んだふたりの子が、きゃらきゃらと笑い声を上げる。
ジャンはベッドの上で跳びはねながら、ルネにこう尋ねた。
「ねえ、これからルネのことは父さんって呼ぶの?」
「いままで通り、ルネでいいよ」
エミリーもみんなで寝るのが楽しいらしく、眠い目を擦りながら頑張って起きようとしている。
「ルネはこれからもずっと、エミリーとジャンといっしょにねる? エミリー、ずっとみんなでいっしょのねんねがいいなぁ」
「あはは。それはどうかなあ? いつまでも父親と一緒に寝ているのも困り物だしね」
ルネは両脇にふたりを抱え布団に横になった。その幼い温もりがぽかぽかと胸を温める。
そしてルネは、とっておきのアドバイスをふたりの子に贈った。
「『君たちは、決して自分を安売りしてはいけない。何事もはじめが肝心だ。決してへりくだっちゃいけない。これからは王侯貴族のように優雅に、皇帝のように堂々としているんだ』」
「何だよそれ、笑っちゃう」「おーこーきぞくってなぁに?」
ジャンとエミリーは、聞き慣れない言葉にくすくすと肩を震わせた。ルネはふたりをきつく抱きしめ、その柔らかな頬に何度も何度もキスをした。
「我が家へようこそ。俺の子どもたち」




