ふたりの子ども(3)
「……ジャンは家から追い出された後、孤児院に入れられなかったの?」
ジャンが腹を満たし、気分が落ち着いてきた頃を見計らい、ルネは尋ねた。
「入ったよ、少しのあいだだけど。でもエミリーを連れて逃げ出して来た」
「逃げ出した? 何か酷いことでもされたの?」
ジャンはもぐもぐと口を動かし、淡々とこう答えた。
「院長がさ、エミリーを売り飛ばそうとしたんだ」
その答えを聞き、ルネは言葉を失った。
「――盗み聞きしちゃったんだよ、院長が金持ちっぽい男と話をしているのをさ。その男がエミリーを指差して、あの子はいくらだ?って院長に聞いた。院長は二百だとか三百だとか言ったっけ。男は、どうせ浮浪児なんだからもう少しまけろだなんだって文句を言って、院長は、あの子は器量がいいから十分元は取れるでしょう、ってさ」
今でも貧民街にはよくある話だ。
孤児や浮浪児の中でも器量のいい子どもを探し出し、無許可の娼館に高値で売り飛ばす。歳は若ければ若いほどいい。中には幼児を好む客もいるからだ。
「いまは薄汚れてよくわかんないかもしれないけどさ、エミリーは本当に器量がいいんだよ。近所でも将来美人になるって評判だった。エミリーの母ちゃんに似たんだよ。俺とは血が繋がってないからね」
「血が繋がってないって、どういうこと?」
ジャンはずずっと音を立て、冷めたスープを飲み干した。
「連れ子同士なんだよ。エミリーは母ちゃん、俺は父ちゃんの連れ子。再婚してすぐ、エミリーの母ちゃんは病気で死んじゃったけどね」
そう言ってジャンは空になったスープ皿に視線を落とした。
何かを考えるように少しのあいだ沈黙が続いた。ふたたび顔を上げたジャンは、今までとは違う神妙な顔をしていた。
「――ねえ、兄ちゃん。誰かエミリーをもらってくれないかな。まだ三歳なのに、こんな生活をさせるのは可哀想だよ。エミリーは顔も可愛いから、もらってくれる優しい人がきっと見つかると思うんだ。俺ひとりだったらこんな生活でもどうにかなると思うしさ」
ジャンが口にした言葉に心臓が止まりそうになった。自分を真っ直ぐに見つめる瞳がルネの心の襞を逆撫でる。
ジャンは自分と同じだと思っていたことが恥ずかしかった。
この子はあの頃の自分より遥かに強い。自分自身を犠牲にして、血の繋がりもない妹を必死で守り、あの過酷な世界にたったひとりで戻っていこうとするなんて――
「おい、ルネ! 風呂の準備ができたぞ!」
そのときアンリがダイニングにいるふたりに声をかけた。風呂、という言葉を聞いたジャンの瞳が明るさを取り戻した。
「兄ちゃんたちの家、風呂まであるの?! 風呂がある家なんて俺、初めて聞いたよ。家がでかいからそうなんじゃないかと思ったけど、やっぱりすっごいお金持ちなんだね!」
笑顔で手招きするアンリを見て、ジャンはパッと椅子から飛び降りた。懐いた小狐のようにアンリの元へ駆け寄っていく。
「そうだよ。俺んちはフランスでも指折りの金持ちなの。お前、あの兄ちゃんに見つけてもらって運が良かったな」
何でもないような顔でそんなふうに言うアンリを、ジャンは羨望の眼差しで見上げている。
「しっかしお前の服、真っ黒だなぁ。ほら、脱げ脱げ! 新しいやつ、明日俺が買って来てやるから!」
「買ってくれるの?! お金持ちってすごいね!」
「そうだろう、そうだろう。お前も将来金持ちになれよ」
アンリは笑いながらジャンの服の裾を引っ張り、丸裸になったジャンを浴室へ連れていった。
その隙に、ルネは自分のベッドで寝ているエミリーの様子を見に行った。
エミリーは厚い布団にすっぽり埋もれ、安らかな寝息を立てていた。ジャンの言う通り、よく見れば天使のような愛らしい顔立ちをしている。
ベッドの端に腰を下ろし、その金の巻毛を優しく撫でた。かつて主人が自分にしてくれたように――
途端、名前のつかない感情がどっと胸に込み上げた。それが目の奥から溢れ出しそうになって、ぎゅっとくちびるを噛みしめた。
アンリは風呂から上がったジャンを自分のベッドに寝かしつけた。ジャンが眠ったのを確認すると、ルネとアンリは毛布を抱え一階の応接間に降りた。
薄い毛布に包まり、それぞれソファに横になる。灯りを消した部屋の中、久しぶりに火を入れた暖炉がぱちぱちと火の粉を散らした。
「――アンリ、今日は本当にありがとう。アンリがいなければ、医者にさえ診てもらえなかった」
向かい合わせのソファに横になったアンリに、ルネは改めて感謝を述べた。
「あんなのたいしたことじゃない。悪い病気じゃなくて良かったよ」
アンリはそう言ったが、ルネは自分の無力さを情けないほど痛感していた。
――この世界で生きていくためには、どうしてもお金が必要よ。何か問題が起きたとき、速やかに解決するためには力も必要。
あのときのマリー=アンヌの言葉の意味が、今頃になってようやく身に沁みる。
「……アンリ。俺さ、さっきからずっと考えてたんだ」
深刻なルネの声を聞き、アンリは静かに視線を上げた。
「――俺、まだ学生だけど、今でもそれなりに給料はもらっているし、来年はアグレガシオンに一発で合格して、そしたら教職にも就けると思う。ここに住む家もあるし――あっ、もちろんこれはアンリのお陰だけど。ふつうじゃありえないような家賃でこんなに立派な家に住まわせてもらって、本当に感謝してるんだ」
アンリはルネの言葉に口を挟まず、黙って話を聞いている。
「あの子たち、このまま孤児院に引き渡すのも不安だし、誰か他にもらい手を探してやってもいいんだけど、でも……何と言えばいいのかな……自分と重ねて、少し感傷的になっているのかもしれない……あの子たちを見ていると、何というかちょっと……」
「前置きはいいから、早く言えよ」
痺れを切らしたアンリが口を開いた。――何だってアンリにはお見通しだ。
ルネは苦笑し、ふうっと息を吐き出した。覚悟を決め、胸に生まれた思いを声にする。
「あの子たち、俺が引き取ろうと思う」
「どうせそんなことだろうと思った」
ルネの一世一代の大決断に驚きもせず、アンリは呆れ笑いを漏らした。だがすぐに、表情を引き締める。
「だけどな、ルネ。子どもを育てるなんてそう簡単なことじゃないぞ」
「わかってるよ」
「もしこの先、誰かと結婚を考えるようなことがあれば、それが足枷になる可能性もあるんだぞ」
「えっ、結婚? しないよ、多分――」
思いもよらないことを言われ、ルネは目を丸くした。そんなルネの反応が意外だったのだろう、アンリも目を丸くする。
「はっ? どうして? 俺はそのうちすると思うよ、多分」
「アンリはしたって構わないよ……この家から出ていかれるのはちょっと寂しいけどね」
「何だ、たまには可愛いこと言うじゃん」
ルネが漏らした呟きに、アンリは小さく吹き出した。
「――じゃあ俺が嫁さんをもらったら、みんなで一緒にここに住もうか?」
「新婚夫婦と一緒なんて勘弁してよ。そうなったら俺が出ていくしかないだろ」
こんどはルネが笑った。火の粉が弾ける音がふたりの笑い声に重なった。
「お前が学校に行っているあいだはどうするの?」
「エミリーには乳母を雇うよ。ジャンは小学校に通わせる。料理人も必要であれば雇うし。お金のことなら心配しなくても大丈夫。――オーギュが残してくれた金がまだ山ほど残っているから」
「まあそれは、うちで雇っている人間を派遣してやってもいいんだけど……」
アンリは煮え切らない声を出し、うーんと唸った。
「現実的なことは、案外どうにでもなるんだよな。俺が心配なのは、お前が一時の感傷に流されてるんじゃないかってことだよ。野良猫を拾うのとは訳が違うんだ。あとで後悔して、途中で放り出すことはできないんだぞ」
「放り出すなんて――」
その言葉がルネの胸を抉った。
主人と出会ってから、何よりも恐れていたことだった。今が幸せだと思えば思うほど、抜けない棘のような不安に苛まれた。
いつか主人に見放され、放り出される日が来るのではないかと。
「――悪い。お前のことを言ったんじゃない。お前は放り出されたわけじゃない」
ルネの心を見透かすように、アンリは慌てて弁明した。
「お前の主人の判断は、お前の幸せを願った末のことだ。離れたくて離れたわけじゃない」
「わかってるよ。俺たちは、ああなる以外どうしようもなかったんだ。ごめん、たしかに感傷に流されているところはあると思う。でも気まぐれでこんなことを言い出したわけじゃないんだ」
形のない自分の気持ちに向き合うように、丁寧に言葉を紡いでいく。
「――俺はたぶん、あの子たちに同じことをしてやりたいんだ。オーギュからしてもらったのと同じことを。オーギュが俺に望んだのと同じことを」
主人が望んだこと――自然と口から滑り出た言葉に、自分自身が驚いていた。
一緒に暮らしていたとき、主人は口癖のように繰り返した。勉強をし、いい職業に就き、家庭を持てと――それがふつうの人生だと。
あの子たちに、ふつうの人生を歩ませてやりたい。あの薄暗い路地裏ではなく、光の当たるおもての道を。
ふつうの人生とは、当たり前にそこにある人生のことじゃない。特別な、幸せな人生のことを言うのだ。
「……アンリ。オーギュは俺に『光の中にいてほしい』って言ったんだ。あの子たちを見て、ようやくその意味がわかった。いま俺も同じことを思ってる。あの子たちに明るい人生を歩ませてやりたいって」
ルネの言葉に耳を澄ませ、アンリは静かに微笑んだ。
そうしてルネは、〈小さなルネ〉に別れを告げた。孤独に怯え、泣いてばかりいた小さな子どもに。
もう十分、自分の足で歩いていける。漆黒の外套に守られていなくても、自分の足で、自分の決めたところへ歩いていける。
「俺があの子たちの、親になるよ」
誓いの言葉のように、はじまりの挨拶のように、別れの抱擁のように――アンリの瞳にそう告げた。




