ふたりの子ども(2)
この一帯は、地方からの出稼ぎ労働者やその日暮らしの貧乏人、公娼登録なしの売春婦や浮浪者も多く、治安がいいとは決して言えない。同じ市内であるのに、美しく整備されたパリ中心部とはまるで別の国だった。
時の流れから取り残されたような古く崩れ落ちそうな建物が、狭い路地にひしめき合いっている。どこもかしこも不衛生で、生ごみや糞尿の放つ悪臭が鼻の奥を突いた。
自分もこんな街に十三まで暮らしていたということが、今では遠い夢のようだった。あれほど辛い記憶をすっかり忘れていられたのは、きっと幸せだったからに違いない。
あの夜、主人にこの街から連れ出され、ずっと幸福な国で暮らしていたのだ。
ルネはある一帯を前に、足を止めた。ここから先は、この地区の中でもとりわけ危険だとルネは昔から知っていた。警察さえなかなか手出しができない、犯罪者やならず者が巣食う一角だ。この地区に住む者たちさえ、この先には決して足を踏み入れない。
そのとき暗い路地の入り口に、大小ふたつの人影が見えた。
小さい方はまだほんの子どもに見える。少年だ。十にもならないかもしれない。小さな影に向かい合った男が、ポケットから小銭を取り出し、その小さな手に握らせた。
その行為が何であるかルネにはよくわかっていた。かつて自分もこの街で、同じような目に遭ったことがあるからだ。
反射的にルネは走り出し、ふたりのあいだに強引に割り込んで男の胸を押しやった。
「――なっんだよてめえは! 横取りかよ!」
酒臭い怒声がルネを襲う。ルネはポケットから五フラン銀貨(約五千円)を取り出し、男の前に突き出した。
「子どもを相手にすんな! これで店にでも行けよ!」
突然押しつけられた銀貨に男は目を丸くしたが、すぐに状況を呑み込んだのか、その赤ら顔に笑みを浮かべた。
「おお、羽振りがいいな、兄ちゃん! 悪いねえ。お陰で久しぶりに女が抱けるわ」
男は少年に握らせた小銭をふたたび巻き上げ、意気揚々と去っていく。それを見てほっとしたのも束の間、こんどは取り残された少年が非難の声を上げた。
「何なんだよてめえは! 邪魔すんなよ!」
「何なんだよじゃないだろ! お前みたいな子どもが夜中にひとりで出歩いていたら危ないんだよ! 家はどこ? 親は?」
「いいことでもしたつもりかよ! 明日のパンが買えねえだろ! 死んだらどうしてくれんだよ!」
ルネの問いに答えもせず、少年は凶暴な野良犬のように喚き立てる。
ルネは少年の腕をつかみ、街燈の下へと引っ張っていった。明かりの下で見てみれば、この寒空の下、擦り切れたシャツ一枚に足は裸足。顔は汚れ、手足は痩せ細り、伸びっぱなしの黒い髪は鳥の巣のようにもつれていた。
「じゃあ、兄ちゃんが俺を買ってくれよ!」
年端もいかない少年の口から耳を疑うような言葉が飛び出した。
ようやく事情を呑み込み愕然とする。――この少年は自ら身体を売りに行ったのだ。どうしようもない飢えを満たす為に。
「――俺は買わないよ!」
「それじゃ明日のパンが買えないだろ! どうすんだよ! 責任取れよ!」
少年はいまにも噛みつかんばかりの剣幕で怒鳴り立てる。
「お前、家はどうしたんだ?! 親は?」
ふたたび問い返すと、少年はぎろりとルネを睨み上げた。
「――追い出されたんだよ! 三ヶ月家賃を滞納したからって! 母ちゃんは病気で死んだし、父ちゃんも出かけたまま帰ってこない! アル中だったから、きっとどっかで野垂れ死んだんだろ!」
喚き立てるその目に、怒りと涙が滲んでいる。ルネは少年の前にしゃがみこみ、その汚れた掌を握った。
「――飯、食わせてやるから、うちにおいで」
思わずそう口にしてしまった直後、後悔が胸をよぎった。
(飯を食わせ、風呂に入れ、布団で寝かせて、その後は――いったいどうする。またこの街に放り出すのか?)
だが少年はルネの言葉に、ぱっと瞳を輝かせた。
「本当に? じゃあちょっと待っててくれる? 妹も連れてくるから!」
「妹がいるのか?」
「うん。橋の下に置いてきたからさ」
そう言って少年は走り出した。慌ててその後を追いかける。
そして辿り着いたのは河とも言えない、腐った水が澱んだ細い運河だった。それを跨ぐ小さな鉄橋の下を覗き込むと、小さく縮こまった塊がある。
「エミリー、起きろよ! 知らない兄ちゃんが、俺たちに飯を食わせてくれるんだって!」
少年はその塊を揺さぶった。だが、返事は返らない。
嫌な予感がした。ルネはその塊を抱きかかえ、街燈の下まで慌てて走った。抱きかかえた腕の軽さに、最悪の想像が頭によぎる。
汚れた毛布に包まっていたのは、二、三歳ほどの少女だった。
ぐったりと身じろぎもせず、目やにのこびりついた両目を固く閉じている。薄汚れてはいるが髪はブロンドの巻毛で、兄の容姿とあまり似ていなかった。
「……えっ、エミリー、どうしたんだよ! な、何で……昼間は元気だったのに」
少年はおろおろと妹の顔を覗き込んだ。
少女の額に手を当てると火がついたように熱い。高熱を出しているようだった。
「医者に連れて行こう! お前も一緒においで」
ルネは少女を抱えたまま、足早に歩き出した。だが少年はもじもじとしたままその場を動こうとしない。
「で、でも、金が――」
「金なんか俺が払ってやるから!」
それを聞いて安心したのか、少年もルネの後を追いぱっと走り出した。
少年を連れ、アンリを待たせている大通りへと走る。アンリは街燈の下に黒塗りのパナール・エ・ルヴァッソールを止め、運転席で新聞を読んでいた。
ルネは少年の腕を引っ張り上げ、後部座席にばたばたと乗り込んだ。アンリは後ろを振り向き、ぎょっとした顔で読んでいた新聞を放り出した。
「――何だよ、そんなに慌てて……えっ、そのガキどうした!」
ガキと呼ばれた少年は、生まれて初めて乗る自動車に目を白黒させている。
「アンリ! 病院に連れて行って!」
「えっ、病院?! この時間にか? 怪我でもしたのか?」
そう尋ねながら、アンリもようやくルネが幼児を抱えていることに気づいた。
「どうしたんだ、その子。病気なのか?」
「わかんない。でもすごい熱で――」
ルネの返事も聞かぬまま、アンリは車のエンジンをかけた。
「飛ばすから、しっかり掴まってろよ!」
そう言ったときにはすでに、夜の大通りを走り出していた。
診療時間外にしつこく呼び鈴を鳴らされた医者の男は、不躾な来訪者を怒鳴りつける為に勢いよくドアを開けた。しかも客は、襤褸に包まれた浮浪児を胸に抱いている。
「こんな夜中にやって来て、しかもそんな小汚いガキを――!」
医者は怒りにまかせ、大声でルネを怒鳴りつける。そんなふたりのあいだにアンリが割って入った。
「急患だ。見てやってくれ」
アンリの顔を見た途端、医者は気まずげな愛想笑いを口の端に浮かべた。どうやらモンテスキュー家の主治医だったらしい。
医者の診察によれば、幸運にもパリの貧民街でよく流行する天然痘やコレラ、腸チフスのような感染症ではなく、栄養失調による免疫低下が原因のひどい風邪だということだった。ゆっくり静養し、栄養のあるものを食べさせれば回復すると言われ、ルネとアンリはふたりを自宅へと連れ帰った。
早速エミリーに温かいスープを飲ませ、身体をお湯で拭いてやり、サイズの小さくなったルネのシャツを寝巻きがわりに着せ、ベッドに寝かせた。
少年はジャンと名乗った。歳は十歳だという。ジャンは用意されたスープとパンとハムとチーズを、ルネが見守る前で貪るように食った。
どれほど腹を空かせていたのだろう。あの寒空の下でこんな薄着で、いままでどうやって過ごしていたのだろう。明日のパンを買う為に、あんなことまで――
口いっぱいにハムを詰め込むジャンの姿に、ルネはかつての自分を重ねた。
古傷が疼くように辛い記憶が蘇り、どうしようもなく胸が苦しい。




