ふたりの子ども(1)
時は流れる。脇目も振らず、粛々と、非情に、勇敢に。
埋まることがないと思っていた喪失にも、いつの間にか慣れていく。慣れることへの抵抗も、罪の意識も、時の波間に洗われ輪郭を緩ませる。
窓に映る温かな灯火に、賑やかな声に安堵する。あの頃の暗く、冷たい静寂の面影も、圧倒的な光によってあっという間に塗り替えられる。
ルネは宵闇に沈む自宅の、重い玄関扉を引き開けた。一階の応接間から漏れ出した興奮する子どもの声が、天井の高い玄関ホールにこだまする。
(――まったく今日は何の騒ぎだ)
ルネは眉間に深い皺を寄せた。真っ直ぐに応接間へと足を向け、ため息を吐きながら勢いよく扉を押し開ける。
途端、白い雲の欠片のようなものが目の前を舞った。――部屋の中が、まるで雲の上だ。その雲の中を、ふたりの子どもが大興奮で走り回っている。
「――ジャン! エミリー! これはいったいどういうことか説明しなさい!」
ルネは目を白黒させながら大声で叫んだ。
「ルネ、おかえりなさぁい!」
「ルネ、おかえり! これすごいだろ! 天国ごっこだよ!」
ふたりの子は、ルネの怒声を聞いてもさっぱり怯む様子がない。
どうやら捨てるつもりだった古い布団の中から、綿を引っ張り出して遊んでいたようだ。その雲の中に寝そべっていたアンリが、むくりと身体を起こした。
「おう、ルネ。――いやあ、ちょっとすごいことになっちゃってさ」
「ちょっとじゃないだろ! これ、誰が掃除するのさ!」
すると三人は一斉にルネを指差した。開いた口が塞がらない。
(散らかすのはいつもこの三人。掃除するのはいつも俺だ!)
「――お、俺は絶対にやらないからね! 自分でやったんだから、自分で片付ける! このあいだそう約束しただろ!」
ルネが叫ぶと、アンリは子どもたちと顔を見合わせ、困ったように肩をすぼめた。
「よし、エミリー。可愛くお願いしてこい」
アンリに背中を押された三歳ほどのブロンドの少女が、ぎゅっとルネの膝に抱きついた。
「ルネ。おかたづけ、してね。エミリーは、じょうずにできないもん」
天使さながらの愛くるしさに、早速ルネの決意がぐらりと揺れる。
「――で、できるって! エミリーならできる! こら、ジャンもそれ以上散らかさないで!」
ジャン、と呼ばれたのは十歳ほどの黒髪の少年だ。ええーっ、とふてくされながら、白い雲間をすいすい泳いでいる。
「ああもう! 明日起きたら一緒にお片付けするんだよ! ふたりとも夜更かししないで早く寝なさい!」
そう言われたふたりは、はーい、と大きく返事をし、ふたたびソファによじ登った。そこから雲の海に飛び込み、雲の欠片を撒き散らしながら部屋の奥へと走っていく。
最後にこちらを振り返ると、ルネ、アンリ、おやすみ!と元気よく言い残し、扉の向こうに消えた。
嵐の去った雲の上に、ばたりとアンリは仰向けに倒れる。ルネは仁王立ちになり、それを上から睨みつけた。
「……一緒になって遊んでないで、たまには君も注意したらどうだい?」
「注意するのはお前の役目、一緒に遊ぶのが俺の役目」
まったく反省の色もない。ルネはどすりと重い鞄を下ろし、ため息を吐きながらソファに沈み込んだ。
「お前、どんどん母親みたいになるな」
アンリは綿まみれのままくすくすと笑っている。
「母親じゃない。せめて父親って言えよ」
「ルネはよくやってるよ。最初はどうなることかと思ったけど」
ルネは部屋中に撒き散らされた綿の欠片を眺め、呆れ笑いを漏らした。
ルネがふたりの子を引き取ったのは、二ヶ月ほど前のことだ。ルネとアンリがこの家で同居をはじめてから、すでに三年が経過していた。
ルネは無事エコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)に入学し、一年目にリサンス(学士号)を取得した。三年目である来年には、ついにアグレガシオン(高等教育教授試験)を受けることになる。
アンリも〈ビジネス〉の準備に忙しい。ルネはもうすぐ二十一歳、アンリは現在二十四歳だ。
「アンリにも……本当に感謝してるよ。アンリがいてくれなかったら、俺ひとりじゃどうにもならなかった」
あのふたりをこの家に連れてきた頃は、今よりもっと酷かった。
ジャンは生意気で反抗的だし、エミリーは泣き虫ですぐに熱を出す。ルネはエコール・ノルマルに通いながら、必死でふたりの世話をした。
「でも、親はお前だからな。俺はあいつらの、ただの友達」
アンリは相変わらず、大雑把で鷹揚だ。小言の多いルネに対して、アンリはあのふたりを上手く甘やかすので、近頃ではルネよりアンリの方が好きだと言われる始末だ。
親というものが、子どもに対しどんなふうに振る舞うかなんて何も知らない。きっと自分のしていることは、主人が自分にしてくれたことの真似事なのだろう。
あのふたりの子には、今年の秋のはじまりにパリの東の貧民街で出会った。
主人がこの家から姿を消して以来、ルネはその行方を捜索し続けていた。もちろん国外へ出た可能性も大いにある。アンリは用事があって遠出をするたびに、その街の画廊に立ち寄り、オーギュスト・デュランという名の画家が――もしくは仮名を使っている可能性も視野に入れ、彼のような特徴を持った男が来たことがないかを聞いて回った。
ときおり、似ている男を見かけたことがあるという返事が返ってくることがあった。しかしいずれも、二、三十年も昔の話だという。
それはオーギュスト・デュランという男が現在の姿のまま長い年月を生きていたのだという証拠に他ならず、当初は半信半疑だったアンリも、あの男は正真正銘のヴァンピールなのだと確信を抱くようになっていた。
ルネも毎週末の夜、パリの街中に主人の姿を探した。いま主人がいったいどこにいるのかなど、皆目見当もつかない。だが、ただじっと待っていることもできなかった。
はじめに思いついたのは、かつてオーギュストが〈仲間〉と住んでいたというパリの東の屋敷だった。ルネはパリの東側を歩き回り、およそ五十年前、〈ヴァンピール騒ぎ〉があり、焼き討ちにあったという屋敷について尋ね回った。
そしてついに、その場所を探り当てた。
そこにはすでに新しいアパルトマンが建ち、当時の面影は何も残っていなかった。だがその場所に立ったルネは、ある事実に気づいた。
ヴァンピールらの隠れ家のあったその場所は、ルネが十三歳まで暮らしていた孤児院から、ほど近い場所だったのだ。
主人に助け出されたあの夜、主人が自分のいた孤児院を通りかかったのは、その屋敷の跡地に戻ってきていたからかもしれない。ルネはそう推測した。すると主人は、かつての仲間たちを偲ぶため、ここに戻ることがあるのかもしれない――
それは主人を探すための唯一の手がかりとなった。
それ以来ルネは、週末になるとその地区一帯を歩き回るようになった。そこの捜索が済むと、他の地区へ見回りに行く。
セーヌ河のほとりや、オペラ座近くの繁華街、エッフェル塔のたもとや、マリー=アンヌの眠るペール・ラシェーズ墓地――
アンリはルネに付き合い、その度ごとに車を出してくれた。いつものように何の収穫もない帰り道、アンリがそばにいてくれて良かったと心から思う。
こんな孤独で先の見えない捜索なんてひとりじゃとても身が持たない。
ふたりの子に出会った夜も、ルネは主人の捜索のため東の貧民街にいた。




