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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
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眠り姫(8)

 ルネは慌ててベッドから飛び降りた。勉強机の引き出しを開け、その奥から布の袋を引っ張り出す。

「――おい、どうしたんだよ、ルネ!」

 戸惑うアンリの目の前で、ルネは袋の中身を床にぶちまけた。

 ダイヤモンドのネックレス。サファイヤの指輪。ゴールドとエメラルドのブローチ。真珠の髪飾り。ピジョン・ブラッドのルビーの指輪――

 そしてファンシーレッド・ダイヤモンドが中央に輝く、巨大なターバン飾り。

 それは、かつてショセ=ダンタンの仮装舞踏会で手に入れた戦利品の山だった。真昼の光を透かした華やかな陰影が床に流れる。

 ルネはアンリの前で膝をつき、深く頭を下げた。

「アンリ――これで、この家と土地を俺に売ってくれないか」

「――――は?」

「いや……これはもともとあんたの物なんだから、これで売ってくれっていうのもおかしいよな! じゃあこれは、あんたに返すから!」

 ルネはターバン飾りを拾い上げ、アンリの胸に押しつけた。

「この残りの宝石と――あと、金なら少しあるんだ! それでも足りない分はこれから死ぬ気で働いて、一生かけても必ず返すから! だから、どうか俺にこの家を――」

「ちょ、ちょっと待てルネ! 何の話だよ。落ち着けって!」

 正気を失ったようなルネを見て、アンリはその肩を強く掴んだ。

「頼りにしていいって言ったよな? この家しかないんだよ! 俺とオーギュを繋ぐものはもうここしかないんだ! この家でオーギュを待ちたいんだよ!」

 わかった、わかった、とルネを落ち着けるようにアンリは両手を掲げた。

 うーんと考え込むアンリに、ルネは縋るような視線を向ける。

 いつも頼もしいアンリだが、今日ほど頼もしく思えたことはない。孤児の自分が貴族の屋敷を買うなんて、こんなことがなければ想像すらしなかっただろう。

 辛抱強くアンリの返事を待っていると、何を思いついたのかアンリがあっと声を上げた。

「じゃあこうしよう! この土地と屋敷は俺が相続するように親父に話をつけるよ。上の兄貴にはヴェルサイユの本宅があるし、下の兄貴は嫁さんとマリー=アンヌ邸に移り住むって話が出てるんだ。だから俺がこの家をもらっても特に問題はないはずだ。俺以外、この幽霊屋敷に思い入れがある家族もいないしね」

 アンリはにやりと白い歯を覗かせた。

「それで今後は、俺が()()としてお前にこの家を貸してやるよ。それなら、俺が生きているあいだはずっとここに住み続けられるだろ?」

 まったくアンリらしい、大胆でシンプルな解決法だった。追い詰められていた気持ちが、ふっと軽くなっていく。

「――あ、ありがとう、アンリ。何とお礼を言ったらいいか……」

「だからさ、この宝石はやっぱりお前が持ってろよ。いつか本当に必要になる日が来るかもしれないだろ?」

 アンリはルネから押しつけられたターバン飾りと床に散らばった宝飾品を拾い集め、袋に詰め直した。それをルネの膝にどすりと置くと、ちらりと視線を上げる。

「――でもその代わりにひとつ、条件があるんだ」

「えっ、何? 俺にできることなら何でも……」

 やはり簡単な話ではなかったらしい。焦るルネの顔を見て、アンリは面白がるように口の端をにいっと引いた。

「俺もこの家で()()()()()()()()()()()!」

「――えっ。ええっ? な、何で?」

「大家には家を管理する責任があるだろ? お前って放っておくと飯も食わないし、熱があっても医者にも行かないし、危なっかしくて仕方がない。俺の持ち家で人に死なれたら後味悪いしね」

 冗談まじりにそんなことを言い出すアンリに唖然とした。だけど、その突飛な言動の裏側にあるものに、もうとっくに気づいている。

(アンリは、出会ってからずっと――優しいばかりだ)

 言葉にする前に気づかれてしまうし、先回りして手を引いてくれる。

 正直言えばもう、独りでいることに耐えられそうになかった。この家で待ち続けても、主人が戻ってくる保証なんてどこにもない。

 独りで生きていくことに怯えていた。誰かにそばにいてほしかった。これ以上甘えてはいけないと思ったのに、またアンリに先回りされてしまった。

「というわけで、今後は大家の言うことには絶対服従だからな。覚悟しておけよ!」

「……今までだって、ぜんぶアンリの言う通りにしてきただろ」

 涙をこらえて言い返すと、そうだったっけ、とケラケラ笑う。

「まあそんなわけだから、変な心配ばかりしてないで、早く風邪治せよ」

 アンリは涙ぐむルネをベッドの中へ押し戻し、借りてきた布団をすっぽりと被せた。そして、よしと呟き立ち上がる。

「じゃあ俺、家から着替え持ってくるから。あっ、布団も必要なのか。引っ越しって案外大変だな」

 アンリは独り言を言いながら、さっさと部屋を出て行こうとする。そんなアンリの背中に手を伸ばし、慌ててジャケットの裾を握った。

 背後から引っ張られたアンリは、うわっと声を上げて振り向いた。

「あ、アンリ――もうちょっとだけ、ここにいて」

 思い切って口にした言葉は、少し震えていた。

 アンリはベッドの脇にしゃがみ込み、ルネの顔の横で頬杖をついた。幼な子の看病をする母親のように、ルネの前髪に指を滑らせる。

「子守唄でも歌ってほしい?」

「ううん、そうじゃなくて……」

 ルネは恐る恐る布団から片手を差し出した。

「――ずっと眠れないんだ。俺が眠るまで握っていてくれる……?」

 いい歳して、男同士で、こんなふうに甘えるなんて、みっともないと我ながら思う。

(だけど、寂しいのはもう見透かされているんだし)

 この際、好き放題甘えてやろうと思った。もう少しだけ、その光を浴びていたい。

 冷え切ったルネの手を、アンリの両手が包み込む。

 大きな手。その力強い温もりが、掌からゆっくりと流れ込み、凍っていた魂を溶かしていく。

 かけがえのないものを、一度に失ってしまった。天涯孤独だった自分を、優しく見守っていてくれた瞳を。残酷な世界から守り、抱きしめていてくれた腕を。それを失ったらもう、生きていけないような気がしていたのに――

 神様は、最後の光を残してくれた。

「……どうしてこんなに優しくしてくれるの? 俺にはアンリにあげられるものなんて、何ひとつないのに」

 疑問に思って尋ねると、アンリは勢いよく吹き出した。

「ルネって頭がいい割に、肝心なところで馬鹿だな」

「……馬鹿って何だよ。だって俺と一緒にいたって、アンリは何も得しないだろ」

 するとアンリは、いつかどこかで聞いた台詞を口にした。

「だってお前って、俺がモンテスキューだとか気にしないだろ?」

「……何言ってんだよ。気にしてるに決まってるだろ」

 くちびるを噛み締め、こぼれそうになる涙を必死にこらえた。滲む視界の向こう側で、そよ風のようにアンリが笑う。

「大丈夫。ずっとそばにいるよ」

 ずっと上手く息ができなかった。だけどようやく安心して息が吸える。

 凍えていた草木を目覚めさせる、優しい、春の太陽。






 

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