眠り姫(8)
ルネは慌ててベッドから飛び降りた。勉強机の引き出しを開け、その奥から布の袋を引っ張り出す。
「――おい、どうしたんだよ、ルネ!」
戸惑うアンリの目の前で、ルネは袋の中身を床にぶちまけた。
ダイヤモンドのネックレス。サファイヤの指輪。ゴールドとエメラルドのブローチ。真珠の髪飾り。ピジョン・ブラッドのルビーの指輪――
そしてファンシーレッド・ダイヤモンドが中央に輝く、巨大なターバン飾り。
それは、かつてショセ=ダンタンの仮装舞踏会で手に入れた戦利品の山だった。真昼の光を透かした華やかな陰影が床に流れる。
ルネはアンリの前で膝をつき、深く頭を下げた。
「アンリ――これで、この家と土地を俺に売ってくれないか」
「――――は?」
「いや……これはもともとあんたの物なんだから、これで売ってくれっていうのもおかしいよな! じゃあこれは、あんたに返すから!」
ルネはターバン飾りを拾い上げ、アンリの胸に押しつけた。
「この残りの宝石と――あと、金なら少しあるんだ! それでも足りない分はこれから死ぬ気で働いて、一生かけても必ず返すから! だから、どうか俺にこの家を――」
「ちょ、ちょっと待てルネ! 何の話だよ。落ち着けって!」
正気を失ったようなルネを見て、アンリはその肩を強く掴んだ。
「頼りにしていいって言ったよな? この家しかないんだよ! 俺とオーギュを繋ぐものはもうここしかないんだ! この家でオーギュを待ちたいんだよ!」
わかった、わかった、とルネを落ち着けるようにアンリは両手を掲げた。
うーんと考え込むアンリに、ルネは縋るような視線を向ける。
いつも頼もしいアンリだが、今日ほど頼もしく思えたことはない。孤児の自分が貴族の屋敷を買うなんて、こんなことがなければ想像すらしなかっただろう。
辛抱強くアンリの返事を待っていると、何を思いついたのかアンリがあっと声を上げた。
「じゃあこうしよう! この土地と屋敷は俺が相続するように親父に話をつけるよ。上の兄貴にはヴェルサイユの本宅があるし、下の兄貴は嫁さんとマリー=アンヌ邸に移り住むって話が出てるんだ。だから俺がこの家をもらっても特に問題はないはずだ。俺以外、この幽霊屋敷に思い入れがある家族もいないしね」
アンリはにやりと白い歯を覗かせた。
「それで今後は、俺が大家としてお前にこの家を貸してやるよ。それなら、俺が生きているあいだはずっとここに住み続けられるだろ?」
まったくアンリらしい、大胆でシンプルな解決法だった。追い詰められていた気持ちが、ふっと軽くなっていく。
「――あ、ありがとう、アンリ。何とお礼を言ったらいいか……」
「だからさ、この宝石はやっぱりお前が持ってろよ。いつか本当に必要になる日が来るかもしれないだろ?」
アンリはルネから押しつけられたターバン飾りと床に散らばった宝飾品を拾い集め、袋に詰め直した。それをルネの膝にどすりと置くと、ちらりと視線を上げる。
「――でもその代わりにひとつ、条件があるんだ」
「えっ、何? 俺にできることなら何でも……」
やはり簡単な話ではなかったらしい。焦るルネの顔を見て、アンリは面白がるように口の端をにいっと引いた。
「俺もこの家で一緒に暮らすことにした!」
「――えっ。ええっ? な、何で?」
「大家には家を管理する責任があるだろ? お前って放っておくと飯も食わないし、熱があっても医者にも行かないし、危なっかしくて仕方がない。俺の持ち家で人に死なれたら後味悪いしね」
冗談まじりにそんなことを言い出すアンリに唖然とした。だけど、その突飛な言動の裏側にあるものに、もうとっくに気づいている。
(アンリは、出会ってからずっと――優しいばかりだ)
言葉にする前に気づかれてしまうし、先回りして手を引いてくれる。
正直言えばもう、独りでいることに耐えられそうになかった。この家で待ち続けても、主人が戻ってくる保証なんてどこにもない。
独りで生きていくことに怯えていた。誰かにそばにいてほしかった。これ以上甘えてはいけないと思ったのに、またアンリに先回りされてしまった。
「というわけで、今後は大家の言うことには絶対服従だからな。覚悟しておけよ!」
「……今までだって、ぜんぶアンリの言う通りにしてきただろ」
涙をこらえて言い返すと、そうだったっけ、とケラケラ笑う。
「まあそんなわけだから、変な心配ばかりしてないで、早く風邪治せよ」
アンリは涙ぐむルネをベッドの中へ押し戻し、借りてきた布団をすっぽりと被せた。そして、よしと呟き立ち上がる。
「じゃあ俺、家から着替え持ってくるから。あっ、布団も必要なのか。引っ越しって案外大変だな」
アンリは独り言を言いながら、さっさと部屋を出て行こうとする。そんなアンリの背中に手を伸ばし、慌ててジャケットの裾を握った。
背後から引っ張られたアンリは、うわっと声を上げて振り向いた。
「あ、アンリ――もうちょっとだけ、ここにいて」
思い切って口にした言葉は、少し震えていた。
アンリはベッドの脇にしゃがみ込み、ルネの顔の横で頬杖をついた。幼な子の看病をする母親のように、ルネの前髪に指を滑らせる。
「子守唄でも歌ってほしい?」
「ううん、そうじゃなくて……」
ルネは恐る恐る布団から片手を差し出した。
「――ずっと眠れないんだ。俺が眠るまで握っていてくれる……?」
いい歳して、男同士で、こんなふうに甘えるなんて、みっともないと我ながら思う。
(だけど、寂しいのはもう見透かされているんだし)
この際、好き放題甘えてやろうと思った。もう少しだけ、その光を浴びていたい。
冷え切ったルネの手を、アンリの両手が包み込む。
大きな手。その力強い温もりが、掌からゆっくりと流れ込み、凍っていた魂を溶かしていく。
かけがえのないものを、一度に失ってしまった。天涯孤独だった自分を、優しく見守っていてくれた瞳を。残酷な世界から守り、抱きしめていてくれた腕を。それを失ったらもう、生きていけないような気がしていたのに――
神様は、最後の光を残してくれた。
「……どうしてこんなに優しくしてくれるの? 俺にはアンリにあげられるものなんて、何ひとつないのに」
疑問に思って尋ねると、アンリは勢いよく吹き出した。
「ルネって頭がいい割に、肝心なところで馬鹿だな」
「……馬鹿って何だよ。だって俺と一緒にいたって、アンリは何も得しないだろ」
するとアンリは、いつかどこかで聞いた台詞を口にした。
「だってお前って、俺がモンテスキューだとか気にしないだろ?」
「……何言ってんだよ。気にしてるに決まってるだろ」
くちびるを噛み締め、こぼれそうになる涙を必死にこらえた。滲む視界の向こう側で、そよ風のようにアンリが笑う。
「大丈夫。ずっとそばにいるよ」
ずっと上手く息ができなかった。だけどようやく安心して息が吸える。
凍えていた草木を目覚めさせる、優しい、春の太陽。




