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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
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眠り姫(7)

 底冷えする明るい部屋の中、ルネはその日記帳をそっと閉じた。

 数日前から突然気温が下がった。――寒い。頭が痛いし、全身がだるい。眠いのに少しも眠れない。

 あれの日からろくに物を食べていなかった。ずっと胃が空っぽだ。だけど何をする気も起きない。

 ベッドに横たわり、瞼を閉じ、耳を澄ました。真昼の邸宅街は取り澄ましたように平穏で、目の前にあるはずの不幸せにも素知らぬ顔をしている。

 遠くに馬車が通り過ぎる。小鳥が枝に止まり、また飛び立っていく。どこかで野良猫が鳴いた。隣の家の使用人が庭を掃く音。遠くから近づく、自動車のエンジン音――止まった。

 階下で大きな物音がした。ばたばたと階段を駆け上ってくる足音。

 多分、あいつだろうと思う。あいつ以外、他人の家に勝手に上がりこむ奴なんて他にいない。

「ルネ!」

 部屋のドアが開くと同時に、真っ青な顔をしたアンリが飛び込んできた。ルネはベッドの上でうつ伏せのまま、顔だけをドアの方に向けた。

「お前、どこか具合でも悪いのか! お前が全然学校に来てないって、ルイ=ル=グランから連絡が来たぞ! お前いったい、何やってんだよ」

 アンリはベッドの脇に膝をつき、ルネの額に掌を当てた。

「すっげえ熱じゃねーか! こんな寒い部屋で、こんな薄着で、死んだらどうする気だよ!」

「……もう、死んだって構わないよ」

「この馬鹿! お前、もう少しマシな服はないのか? 悪いけど勝手に探すからな!」

 そう捲し立てながら、すでにアンリはルネの衣装箪笥を引っ掻き回している。

 ろくなものがない、服くらいまともに買えよとぶつぶつ文句を言い、手当たり次第ルネに服を被せていく。それが済むと、無理やり薄い布団に押し込めた。

「お前、どうせ何も食ってないんだろ! ちょっと待ってろ、隣の家の奴に何かもらってくるから!」

 アンリはそう大声を上げながら、止める間もなく部屋を飛び出していった。

 嵐が去った部屋の中はやけに白々とし、明るい水底に沈んでいるような感じがした。

 それからまもなく、アンリは隣から分けてもらった野菜スープと借りてきた厚い布団を抱え、ばたばたとルネの部屋に戻ってきた。

「自分で食える? 俺があーんして食わせてやろうか?」

 からかうように言うので、ルネは自分でスプーンを持った。

 久しぶりに喉元を過ぎていく、温かな感触。胸の奥が少し緩むような感覚がする。

 アンリはベッドの端に腰を下ろし、スープを飲み続けるルネを黙って眺めていた。だがしばらくすると辺りを見回し、不審げな顔でこう聞いた。

「……なあ、お前の主人はどうしたの? 看病してくれなかったのか?」

 それを聞いた途端、緩んだはずの喉の奥がふたたびきゅっと締まった。

「家に……いないのか?」

 答えようとしても、すぐに言葉が出てこない。

 アンリはルネの頬の傷跡に気づき、そっと指先で触れた。

「お前、大丈夫?」

「……大丈夫、じゃ、ない」

 声にした瞬間、押し込んでいた感情が決壊した。壊れた蛇口のように涙が溢れ出してくる。

 アンリはルネの手からスープ皿を取り上げ、咽び泣く頭を胸に抱えた。大きな掌が力強く背中をさすってくれる。

 気が収まるまでアンリの胸で泣いたあと、ルネはようやく口を開いた。

「……オーギュが、家を出ていった」

「えっ、何で。喧嘩でもしたのか?」

 ルネは首を横に振った。

「オーギュは多分、俺のために家を出ていった」

「お前のためって……どういう意味だ」

 アンリが不審げに眉を寄せる。

(わからなくて当然だ。ヴァンピールになりたかった奴と、させたくなかった奴。こんな嘘のような話、どう考えてもふつうじゃない)

 だけど――誰かに話を聞いてもらいたかった。これ以上、ひとりで抱え込むのは限界だった。

 そして、こんな話をまともに取り合ってくれる奴なんてアンリしかいない。

「……今から信じられないような話をするけれど、俺が何を言っても信じてくれる?」

 そう尋ねたルネの手を、アンリは力強く握った。

「信じるよ。どんなことでも信じる」

 その頼もしい言葉を聞き、ルネは大きく深呼吸をした。

 アンリの瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。その瞳を信じて、ルネは真実を告げた。

「オーギュは、ヴァンピールなんだ」

 へっ?と、アンリの口から気の抜けた声が漏れる。だが、ルネの大真面目な顔を見て、慌てて表情を戻した。

 きっと予想を遥かに超える告白だっただろう。それなのに、冗談にして笑い飛ばすこともなく、いつものようにふざけることもなく、辛抱強くルネのつぎの言葉を待っている。

「――だから太陽の下には出てこない。一切食事も取らない。歳も取らない。思い当たる節あるだろう?」

 アンリはルネを見つめ、しきりに瞬きを繰り返した。――半信半疑、といったところだろうか。そうだ、こんな話、ふつうなら冗談にしかならない。

「一緒に暮らしはじめたときから、俺はそれを知らされていた。だから俺もずっとヴァンピールになりたいと思っていた。だけど、オーギュはずっとそれを拒んでいた。俺に、人としての人生を歩めと言って」

 アンリは真剣な顔で話に耳を傾けている。そうしてくれるだけで、これほど救われた気持ちになると思わなかった。

「ヴァンピールは歳を取らないから、それが周りにばれないように、五年を目処に各地を移動するんだ。オーギュがパリに戻ってきて、もう五年目に入っている。つぎの移動には俺もついていくつもりだった。いや、それよりも――」

 ルネは視線を手元に落とした。

「もうヴァンピールにしてくれと、オーギュに懇願した。この先もずっと、一緒に生きていきたかったから。オーギュはそれを――拒んだ」

 俯いた瞳からふたたび涙がこぼれ落ちた。アンリは胸元からハンカチを取り出し、ルネの手に握らせた。

「信じるよ、ルネ。俺はぜんぶ信じる。事情はおおかた理解したよ。ひとりで抱え込んで辛かったな」

 ルネの肩を掴み、安心させるようにアンリは言った。手渡されたハンカチを目許に押しつけ、ルネは何度も頷いた。

 ぜんぶ信じてくれなくていい。その場しのぎの慰めで構わない。

 こんなふうに寄り添ってくれる友を得られたことが、何より幸運だと思う。

「――ありがとうアンリ。話を聞いてくれて」

「話を聞くくらい何だ。そもそもお前って自分の話をしないだろ。困ってんならちゃんと言え。もっと俺を頼りにしろ。いつまでも天涯孤独みたいな顔しやがって、俺に失礼だと思わないのか?」

 いつも通りの明るさにほっとして肩の力が抜けた。そんなルネの顔を見て安堵したのか、アンリも笑顔を見せた。

「まあ、そんなに思い詰めるなって。お前の主人だって、いつかひょっこりこの家に戻ってくるかもしれないしさ」

(――戻ってくる?)

 その言葉にはっとした。

 あれは永遠の別れだと勝手に思い込んでいた。だけど、この家に戻ってくる可能性があるのなら――

 そう思った瞬間、重大な問題に気づいた。

 この家は、主人がマリー=アンヌから借りていたものだった。マリー=アンヌが亡くなったいま、その所有は現在のモンテスキュー伯爵、つまりアンリの父に戻っているはず。

 伯爵はルネに家を貸す義理はない。ここから出ていけと言われるのは時間の問題だ。そうなれば――

 主人が戻ってくるかもしれない場所を、永遠に失ってしまうことになる。



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