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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
33/50

眠り姫(6)

「――ルネ! 何をしているんだ!」

「血を抜くんだよ! それであんたの血を飲む! もう子どもじゃないんだ。いま歳が止まっても困らないだろ!」

「馬鹿を言うな! お前をヴァンピールにはしない!」

「馬鹿はあんたの方だよオーギュ! ヴァンピールになる方法を俺に教えたのはあんただろ!」

 ナイフを奪おうとするルネの手をオーギュストが捻りあげる。

「本当はずっと迷ってたくせに! 俺が離れていくことを考えたら、寂しくて仕方なかったくせに!」

「――違う! 迷ったことなどない! お前をヴァンピールにしようと思ったことは一度もない!」

「よく言うよ! あんたはどうせ後になって後悔するんだ! あのとき俺をヴァンピールにしておけばよかったって!」

「お前は少しもわかっていない! 私のような怪物になることが、どれほど醜悪なことなのか」

「わからないよ! そんなことわからなくても構わない! でもふたりならどうにかなることだってあるだろ!」

 ――同じ時の中に生きるだけが、彼を愛する方法ではないわ

 揉み合いながら、マリー=アンヌの最後の言葉が耳の奥に蘇る。

 ――最後のお願いよ。これからは私の代わりに、あの人を守ってあげて。

 やめてくれ。

 俺に押しつけるな。

 そんなものクソ喰らえだ!

 そのとき、主人が取り上げたナイフの先端がルネの頬をかすった。

 白い頬にじわりと浮びあがる――紅い新月のような傷痕。かすかな血の匂いが鼻先を通り過ぎた。

 主人の蒼い瞳が恐怖の色に染まる。震えるその手から滑り落ちたナイフが、乾いた音を立てた。

 主人は床に泣き崩れた。

「……ああ、ルネ。許してくれ。お前に、こんな――」

 取り乱す主人の嗚咽が、ナイフの代わりに胸を抉った。

 どうしてこれほど上手くいかない。ただそばにいることが、これほど難しいなんて。

(苦しませたくない。その苦しみを、追い払ってやりたいのに――)

 ルネの瞳から涙がこぼれ、血と滲み、流れた。ぽつぽつと、顎から伝った涙が、床板に円い染みを作っていく。

 床にうずくまる主人をルネは見下ろした。

「――俺がそばにいたいんだよ、オーギュ。あんたがいないと生きていけない」

 長い黒髪が嗚咽に震えている。膝をつき、その頭を胸に抱えた。

「これが最後のお願いだよ――そばにいろって言って。それ以外にはもう、何も望まないから」

 主人は涙に濡れた顔を上げ、こんどはルネを腕に抱いた。

 その冷たい心臓に、追い縋るように強く願った。

 離れないでオーギュ。永遠にそばにいろって言って。

 どうか、俺の手を振り払わないで。

 聞き分けのない子どものように、何度も何度も。

 でも――本当はわかっている。主人はきっとそう言わない。

 誰にも止めることのできない強い力が、ふたりを別の方向へ押し流していく。

「――ルネ。お前にはこの世界を生きていく力がある。生きるというのは、何より素晴らしいことなんだ。どうか私の代わりに、光の中にいてくれないか」

 出会ったあの頃のように、ルネの身体はもう主人の腕に収まらない。それでも主人は大きくなった背中をさすり、揺り籠のように優しく揺らした。

 古い床板が波音のように、ギイ、ギイ、と音を立てる。

 翌日、主人はルネの前から姿を消した。きれいに片付けられた部屋の中には、向こう十年は暮らしていけそうな札束の山が残されていた。









 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 Le 17 Avril 1900


 オーギュが俺にペンとノートをくれたから、今日から日記をつけることにする。

 俺が十三年暮らした孤児院からこの家にやってきたのは、ちょうど一週間前のことだ。ここはモンテスキュー伯爵の所有する屋敷で、オーギュはずっと前からこの家を借りているのだという。

 たしかにパリの一等地に建つ大豪邸だが、はっきり言ってただの幽霊屋敷だ。オーギュは使用人も雇わずひとりでここに暮らしていて、中庭は雑草がぼーぼーだし、壁紙も床もぼろぼろ、あっちこっち蜘蛛の巣だらけだ。

 でもそんなことが気にならないほど毎日楽しい。あのクソみたいな孤児院に比べたら、この幽霊屋敷は天国みたいだ!

 俺の主人、オーギュの本名はオーギュスト・デュラン。さいしょ聞いたときは冗談だろって思ったけど、オーギュは〈ヴァンピール〉だという。

 ヴァンピールってもっと怖くて化け物みたいなやつを想像していたけど、全然違った。オーギュは俺を助けてくれたし、俺の血を吸ったりしない。オーギュが血を吸いに行くのは、パリ中にいる愛人たちのところだ!(貴族の血は美味い。毎日いい物を食べているせいだろう、だって。笑っちゃうよ。きっと俺の血はまずいから吸わないんだろうな)

 オーギュは貴族が着る真っ黒な服を着ていて、昔の人みたいな喋り方をする。百年以上も生きているらしいから、きっとそのせいなんだと思う。顔は蒼白くてめったに笑ったりしないけど、怖いと思ったことは一度もない。はっきり言って、人間の方が遥かに怖い。

 今もときどき孤児院のことを思い出す。俺はいつも腹ぺこだったし、職員はすぐ俺たちを殴った。特にあの太った院長は――思い出すだけで吐き気がするからここには書きたくない。

 あの夜、オーギュが院長から俺を助けてくれたとき(多分院長は致死量まで血を吸われて死んだと思う。自業自得だ!)神様っているんだなって思った。実際は神様じゃなくてヴァンピールだったけど、そんなのたいした違いじゃない。

 誰か助けて、っていつも心の中で祈ってた。周りの奴らだって気づいていたのに見て見ぬふりをした。院長に殴られて左目がつぶれたときだって、誰も俺の言うことを信じてくれなかった。だけどこの世界で、オーギュだけは俺を助けてくれた。

 一緒に来るかって聞かれて、うん、って即答した。ずっと外の世界に行きたいと思っていたし、あの孤児院に比べたらきっとどんなところでもましだと思ったから。

 でも来てみたら、ましなんてもんじゃなかった! ここは幽霊屋敷だけど、俺はもう腹ぺこじゃないし、気まぐれに殴られることもない。就寝時間の後に聞こえる足音にびくびくする必要もないし、何よりいつもオーギュがそばにいてくれる。

 ここは俺の家で、オーギュは俺だけの主人だ。こんなことは人生で初めてで、朝起きて全部夢だったらどうしようって、ときどきすごく不安になる。

 昨日の夜、オーギュは開幕したばかりのパリ万博に俺を連れて行ってくれた。

 街はたくさんの電灯に照らされて、夜なのに昼間みたいに明るかった。見慣れない服を着た外国人が大勢いて、みんな楽しそうだった。

 初めて見たエッフェル塔は(エッフェル塔は俺が暮らしていたパリの隅っこからは全然見えなかった)ライトアップされていて、暗い夜空にぽっかり浮いているみたいだった。

 同じ街のはずなのに、いままで俺が住んでいた場所とは全然違った。俺はヴァンピールと一緒に時間と空間を飛び越えて、未来の星に連れて来られたのかもしれないって思った。足元がふわふわして、胸が苦しくて、急に心細くなって、オーギュの黒い外套を引っ張った。

 そしたらオーギュは俺の肩を抱いて、「ルネ、これが新しい夜だよ」って俺に言った。これから夜はどんどん明るくなる。ヴァンピールには厳しい時代がやってくるぞって。そう言いながらオーギュは、嬉しいのか悲しいのかよくわからない、おかしな顔で笑っていた。

 ねえオーギュ。もし心細いのなら俺がずっとそばにいてやろうか。そう言ったら、オーギュは不審そうに黒い眉を歪めた。俺をヴァンピールにしてくれたらずっと一緒にいられるよって俺が言うと、それはだめだと即答された。ちゃんと学校に行かせてやるから、まともな職業について働け、そして美人と結婚して家庭を持て、だって。そんなふうに言われて正直すごく腹が立った。俺の人生を勝手に決められるなんて、まっぴらごめんだ!

 俺は昨日ヴァンピールになると決めたし、この先もずっとこの家から出ていくつもりはない。オーギュにどれだけ反対されようと、この決意は変えないつもりだ。家事だって手伝いだってなんだってするし、この先めいっぱいオーギュを甘やかして、お前がいてくれないと困るからずっとここにいてくれ、ってオーギュの方から泣きついてくるようにしてやろうと思っている。一日目の日記は、俺の決意表明だ。



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