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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
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眠り姫(5)

 どこかでかすかな物音がし、ルネは顔を上げた。群青の風に舞い上がった落ち葉が、かさかさと窓ガラスをかすめていく。

 その窓辺に、小さな置物が並んでいた。三年前、ルネがニースの土産物屋で買ったサントン人形(素焼きの人形に彩色したプロヴァンスの工芸品)だった。

 生まれたばかりのキリストを抱く聖母マリアと、ナザレのヨセフと、子羊。気恥ずかしくてマリー=アンヌには言わなかったが、聖母マリアはマリー=アンヌ、ヨセフはオーギュストで、子羊はルネのつもりだった。

 三つの人形は輪を描くように、お互いを向いて飾ってあった。――まるでひとつの家族のように。

「……マリー=アンヌは、自分もヴァンピールにしてほしいってオーギュにお願いしたことはないの?」

 ずっと抱いていた疑問を恐る恐る口にした。マリー=アンヌは、そうね、と寂しげな笑みを浮かべた。

「――彼と同じ時間を生きたかった。永遠に美しいあの人に、醜く年老いていく姿を見られることが辛かった。身分も財産もすべて投げ出して、ただあの人とふたり、ともに生きていこうと思ったときもあったの。でも……その望みを捨てても、この世界から彼を守りたかった」

 透明なマリー=アンヌの瞳が、真っ直ぐにルネを見つめた。

「すべてを投げ出せば、私には何も残らない。あの人が困ったときに、何もしてやることができないわ。――ルネ、この世界で生きていくためには、どうしてもお金が必要よ。何か問題が起きたとき、速やかに解決するには力も必要。だからこそ私は、〈モンテスキュー伯爵夫人〉を続けていくことを選んだ。そうでなければ、あの人をこの世界から守れないと思ったからよ」

 初めて知ったマリー=アンヌの覚悟に、ルネは愕然としていた。

 主人はマリー=アンヌを生かすために、そしてマリー=アンヌは主人を()()()ために生きてきたなんて――

 ずっと、永遠に、そばにいることだってできたのに。

「ルネ、これは私の最後のお願いよ。これからは私の代わりにあの人を守ってあげて。こんなことはあなたにしか頼めない」

 だがルネは、その願いを撥ねつけるように首を振った。

 心から愛し合っていたふたりが、どうしてこんなことになってしまったのか。

「――オーギュは、マリー=アンヌがいなきゃ駄目だ。これからもそばにいてやってよ。今からヴァンピールになったって遅くないだろ?」

 また涙が止まらなくなって、布団に顔を押しつけた。ぐずる子どもを宥めるように、マリー=アンヌが優しく髪を撫でてくれる。

「みんなでヴァンピールになって、ずっと一緒に生きていこうよ。もし困ったことがあっても、三人だったらどうにかなるだろ? ね、そうしようよ、マリー=アンヌ……」

「ルネ。同じ時の中に生きるだけが、彼を愛する方法ではないわ」

 違う。俺はただ、離れたくないだけだ。

 言っても無駄だと分かっているのに、みっともなく駄々をこねた。

 優しい指先。変わらない笑顔。春風のようなキスと抱擁。

 人生で初めて手に入れた、母親のような人。

「可愛い子。もし私に子どもがいたら、きっとあなたみたいな子だったと思うのよ」

 幾度となく繰り返され、耳に馴染んだその言葉――

 照れ臭くてごまかしてばかりいたけれど、胸の奥に根を張った寂しさをどれほど温めてくれただろう。

「あなたは俺の母親だよ。血の繋がりがなくても、あなたほど母親らしい愛情を注いでくれた人は誰もいない」

 マリー=アンヌは、母親のようにルネの頭を撫で続け、最後まで涙を見せなかった。

「――愛してるよ、マリー=アンヌ」

 私もよ、プティ・プランス――

 その愛しい声が、今日も自分をそう呼んだ。

 どこにいても、永遠に、あなたの幸せを願ってる――

 何度も聞いたその言葉が、ルネを抱きしめるように、心に根を下ろしていく。





 二日後、マリー=アンヌは親族に見守られ、静かに息を引き取った。その葬儀にはマリー=アンヌを愛した数多くの人々が参列し、遺体はパリ市の東、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。ルネは葬儀に参列したが、主人は参列できなかった。

 日が暮れてから、ルネはふたたび主人とともにペール・ラシェーズ墓地を訪れた。

 墓地は冷たい夜霧にけぶっていた。

 真新しい墓。捧げられた花々。すべてが啜り泣くように濡れている。

 主人はそこに大きな薔薇の花束を捧げ、人目もはばからず泣き崩れた。ルネは纏わりつくような夜霧に濡れ、永遠の別れの前にいつまでも佇んでいた。




 マリー=アンヌの死を境に、何かが大きく変わってしまった。主人は眠っている時間が多くなり、一切絵筆をとらなくなった。

 葬儀から半月を過ぎる頃、ルネは主人の顔色の変化に気づいた。

 滑らかな石膏のようだった皮膚が張りを失い、鈍色に沈んでいる。黒い髪も艶を失い、十は老け込んでしまったように見えた。

「オーギュ。最近、愛人たちの家に行っていないんじゃない?」

 薄暗い部屋の中、ぼんやりと立ち竦む主人にルネは尋ねた。

 主人の蒼い瞳は虚ろで、ルネの問いかけもまるで聞こえていないようだった。

「……血を飲んでいないんだね?」

 主人をソファに座らせ、向かい合った。

 視線は合っているはずなのに、自分を見ていない。ルネの瞳を透かし、遥か彼方を見つめている。

「悲しいのはわかるけれど、このままじゃいられないだろ。元の生活に戻らないと」

 腕を揺さぶると、すっと一筋、涙の粒が流れ落ちた。溢れ出した涙が、堰を切ったように蒼白い頬を濡らしていく。

「……愛人たちのところに行けないのなら、俺の血を飲みなよ」

 ルネは自分の手首を主人の口許に押しつけた。

 氷のように冷えたくちびるの感触――当然ルネの手首に噛みついたりしない。

 ルネは苛々と立ち上がり、戸棚の引き出しを開けた。奥からペーパーナイフを取り出して、ふたたび主人の前に座る。その刃先を、躊躇なく自分の手首に押し当てた。

 鈍い銀色の光に、主人ははっと意識を取り戻した。即座にルネの手からナイフを奪うと、力任せに放り投げる。

 壁に当たったナイフが鋭い音を立て、床を滑った。

「……何の真似だ」

 久々に聞く主人の声だった。見上げると、その瞳に冷たい怒りが滲んでいる。

「……いい加減にしろよ」

 思い通りにならない主人の態度に、やり場のない苛立ちが募っていく。ルネは自分の手首を強引に主人の口に押しつけた。

「早く飲めってば。腹減ってるんだろ」

 差し出した腕を乱暴に振り払われる。その瞬間、押し込めていた怒りが決壊した。

「そんなに別れが辛いなら、マリー=アンヌをヴァンピールにしておけばよかっただろうが!」

 そう怒鳴りつけながら、ルネは主人の胸ぐらに掴みかかった。胸の上に馬乗りになると、古いソファが悲鳴のような軋みを上げた。

「あんたは馬鹿だよ! 変な正義感なんか捨てて、寂しいって認めればよかったんだ! 死んだ後に後悔なんてしても遅い! すべてが手遅れだよ!」

 見開いた主人の瞳から、はらはらと涙が流れ落ちる。

「オーギュが頼めば、きっとマリー=アンヌはヴァンピールになった! あんたを誰よりも愛しているから! その言葉をずっと待っていたのかもしれないのに――!」

 主人は顔を覆い、怯えるように首を横に振った。長い指の隙間から、低い嗚咽が漏れる。

「……できないんだよ。あの美しい人を、私のような化け物に」

「だからってそうやっていつまでも泣いているつもりかよ!」

 ルネは乱暴に主人の身体を揺さぶった。

 これじゃいつまで経っても埒が明かない。平行線だ。

 主人の上から飛び降り、床に転がっていたナイフを掴んだ。その先端を自分の首筋に突き立てると、主人はソファを転がり落ち、ルネに飛びついた。

 互いにナイフを奪おうと、床の上で揉み合いになる。



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