眠り姫(4)
初めて入ったその部屋は、マリー=アンヌの好きな水色を基調に、美しく調えられていた。
壁紙は淡い水色の小花柄、ジャカード織りのカーテンは瞳と同じブルーグレイで、優美な曲線を描くカウチソファもサックスブルーの布張りだった。
壁際のコンソールの上で、花瓶に生けられた真紅の秋薔薇がこぼれ落ちるように咲いている。その隣には、主人が描いたと思われる春の女神フローラの絵画――それはとてもよくマリー=アンヌに似ていた。
そして寝室の奥の窓際に、レースの天蓋が吊り下がった白い雲のような寝台。
美しい夢のような部屋だった――それなのに、透明な死の気配が静かに充満していた。
ルネ、と消え入りそうな声が白い雲の中から聞こえ、ルネはびくっと肩を跳ね上げた。
上手く動かない足をようやく進め、寝台の脇に立つ。
柔らかな布団に埋もれるようにして、またひと回り小さくなった姿がそこにあった。
おとぎの国の眠り姫のようだと思った。瞼を閉じた途端、すっと永遠の眠りについてしまいそうな――
「……遅かったのね、プティ・プランス。あなたをずっと待っていたのに」
それ以上こらえることができず、両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
どうしてもっと早く、もっと長く、そばにいてやることもできたのに。
差し出されたその手を強く握りしめた。白く、折れそうに細い、冷たい指先。
「ごめんね……待たせてごめん、マリー=アンヌ……本当はずっと、会いたかったのに」
「わかっているわ、ルネ……別れに向き合うのは辛いことだわ」
「別れる、なんて――」
止まらない涙を、優しい指先が拭ってくれる。
「ルネ、私はもう長くない……でも後悔はないの。精一杯、生きたいように生きたから」
「そんなこと言わないで。またすぐに元気に――」
涙に声を詰まらせると、マリー=アンヌは柔らかな笑みを浮かべた。
「……あなたに聞いてもらいたかったことがあるのよ。今日は気分がいいから、少し長い昔話もできるわ」
「……昔話?」
ルネは慌てて自分の目許を拭った。
「私が、最初で最後の恋に落ちた日の話」
そう告げた水色の瞳が、春の泉のように優しく揺れた。
マリー=アンヌは語りはじめた。
「――私の実家はいわゆる没落貴族というものでね、歴史の長い家柄だったのだけれど、フランス革命以来、財産の多くを失った。跡継ぎである兄に、わずかに残った財産を受け継がせるだけで精一杯。私が結婚するような年頃になっても、貴族の娘に相応しい持参金を持たせてやれないと父はとても悩んでいたわ。そういう場合はたいてい、持参金がなくても構わないと言ってくれる相手に嫁ぐのよ。たとえば、父親ほど年の離れた男性の後妻になるか、あるいは貴族の血筋が欲しい裕福な商人の男性ね。
幾人か、持参金なしでもいいと言う申し出があったわ。でも父は悩んでいたの。持参金も持たずに後妻として家に入れば、先妻の息子や親族からひどい扱いを受けることもあったのよ。他に候補に上がっていた貿易商の男性や金融業を営む男性も、街であまり良い評判を聞かないからと。
そのときね、父の古い学友が声をかけてきたのよ。その方が私の嫁ぐことになる、モンテスキュー伯爵だった。
父と伯爵は若い頃に同じ寄宿舎で過ごした同級生でね、大人になってからもずっと付き合いが続いていたの。私の実家にも度々いらっしゃって、小さな頃からよく存じていたわ。温和で、博識で、誰もが認める人格者。本当に立派な方だったのよ。親友の娘である私のことを、実の娘のように可愛がって下さっていたの。
伯爵は父が私の嫁ぎ先のことで悩んでいると知って、こう仰ってくださった。もし不安があるところへ嫁がせるくらいなら、自分が娘さんを引き受けよう、って。伯爵は奥様を亡くされたばかりで、跡継ぎとなるお子様もいらっしゃらなかったから。
父は驚いたわ。まさか親友が自分の娘をもらうなんて夢にも思ってもみなかったのよ。それもフランスで最も有名で裕福な名門貴族のモンテスキュー家だもの。
戸惑う父に伯爵はこう言ったそうよ。君は私の家柄がどうだということではなく、ひとりの人間として向き合い、私の良き友人になってくれた。私は何度も君に助けられたから、つぎは私が君を助けてやりたい。君の娘さんには、何ひとつ不自由な思いはさせないと約束する。実の娘のように大切にするから、と。
そうして私はモンテスキュー伯爵の妻としてこの家に入ったの。彼は約束通り、私をとても大事にしてくれたわ。でも、妻としてではないの――実の娘のようによ。伯爵は亡くなった奥様のことを心の底から愛してらっしゃったから。
結婚をするときに、彼は私にこう言ったのよ。申し訳ないが、君のことは娘として愛していくつもりだ。だから君も私に遠慮せず、心から愛せる人を見つけなさい、って」
驚くような話だった。
マリー=アンヌに子どもができなかったのは、そういう理由だったのだ。世の中にはそんな結婚の形もあるのだとルネは驚愕した。
「――少しほっとしたような、だけど少し寂しいような気分だった。モンテスキューの本宅はヴェルサイユにあったのだけれど、伯爵は私のためにパリの真ん中に別邸を用意してくれたの。それがいまあなたたちの暮らしている、フォーブール・サン=ジェルマンの邸宅よ。
あの頃、パリでは毎夜あちらこちらで舞踏会が開かれていてね、伯爵は私がパリの社交界に顔を出しやすくするためにパリの真ん中に私を置いたのよ。君はまだ若いのだからたくさんの人と出会いなさい、そして人生を楽しみなさいと彼は私に言ったわ。
そしてあれは――一八五〇年にオペラ座で開かれた仮装舞踏会でのことよ。オペラ座の仮装舞踏会には、入場料さえ払えば誰でも入ることができたの。身分も歳も職業も関係なく、大勢の人が集まったわ。若い学生さんが可愛いガールフレンドを連れてきたりしてね。貴族ばかりの気取った舞踏会より、賑やかで刺激的でとても楽しかったの」
そこでマリー=アンヌは、少し言葉を切った。遠くを見つめる水色の瞳が、優しい夢を泳ぐようにゆらりと揺れた。
「――腕を掴まれたの」
マリー=アンヌは言った。
「あのとき彼は、私に向かって誰か知らない女性の名を呼んだのよ。よく聞き取れなかったけれど、きっと別の人と間違えたのね。申し訳ありません、古い知り合いと後ろ姿がよく似ていたものだから、と彼は私に謝ったわ。
きっとあの瞬間――私は魔法にかけられてしまったのね。白い仮面から覗いた真っ青な瞳が、ちらりちらりと私を見るの。愛しい人を見つめるような、熱を帯びた眼差しでね。だから私はすっかり彼に愛されているような錯覚を起こしてしまって、胸の高鳴りが止まらないのよ」
マリー=アンヌは懐かしげに目を細め、春風のように笑った。青白い頬にほんの少し紅が差したように見えた。
「私たちは軽い会話を交わし、見知らぬ他人同士に戻るはずだった。でもね、私はそれで終わりにするのが嫌だったの。だから、女からそんなことを言うのははしたないとわかっていたのに、自分から彼を誘ったのよ――またお会いできますか、ってね。
それから私たちは人目を忍んで会うようになった。会うのはいつも真夜中に、私の家の中だったわ。明かりを落として、薄暗い部屋の中でね。
いま思えば、ずいぶんと大胆な真似をしたと思うわ。もし誰かに知られたら、何を言われるかわからなかった。でも私は若くて、周りが見えなくなるほど彼に夢中だったの。彼も私を拒まなかった。たとえ私が彼の『古い知り合い』の代わりだったとしても、それで構わないと思ったわ。いまこの瞬間、彼の瞳に映っているのは私だけなのだから」
ふと、若かりし頃のマリー=アンヌの肖像画を思い出した。
あの花の精のような少女が、主人の隣に寄り添う姿――それはまるで、優美な幻想そのものだった。




