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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
30/50

眠り姫(3)

 その翌週のこと。ルネが学校から帰宅すると、屋敷の前に黒塗りの高級車が止まっていた。

 誰の車かはわかっている。アンリだ。

 アンリは帰宅したルネの姿に気づくと、運転席からぱっと飛び降りた。

 三年前の夏休み、南仏でともに過ごしてから、アンリは何の約束がなくてもこうしてルネに会いに来るようになった。

 主に週末、車でルネを迎えに来て、外食や観劇などに連れ回す。

「おう、ルネ。お帰り」

 アンリは小さく片手を上げ、帰宅したルネを迎えた。

 ――予感がした。

 その太陽のような笑顔が、今日は薄い雲の影に隠れている。

「……今日はどこに行く? この前言ってたチケットはシャトレ座だっけ? それともオデオン座? そういや新しく開店したカフェ・コンセールっていうのは――」

 不自然に声が震えてしまった。アンリは腕を組み、静かにルネを見返した。

「お前……なんでマリー=アンヌに会いに行かないの?」

(きっと、その話だと思ったんだ)

 ルネはアンリの問いかけから逃げ出すように視線を落とした。

 マリー=アンヌは、アンリから見れば祖父の伯父の妻だ。血の繋がりはない。

 アンリの祖父母は早くに逝去しており、現在のモンテスキュー一族の中ではマリー=アンヌが最長老だ。

 子どもがいないマリー=アンヌの面倒は、ずっとアンリの父が見てきたという。その父に連れられて、アンリも幼い頃からマリー=アンヌ邸にはよく出入りしていたらしい。

 だからアンリと仲良くなってからは、アンリの車で買い物や観劇に連れて行ったり、三人でよく食事にも行った。

「俺は……マリー=アンヌに会えない」

 その名前を口にするだけで喉の奥が震えた。目を合わせなくても、アンリが針のような視線で見ているのがわかった。

「マリー=アンヌは、お前が来るのをずっと待っているぞ」

 自分の行く手を阻むように、アンリが壁に片手をつく。

「そうかも、しれない。でも……会いたく、ない」

 ルネ、とため息混じりにアンリが言う。その声に焦りと苛立ちが入り混じっていた。

 日の落ちた秋風が、急かすように足元を通り抜けていく。

「お前の気持ちもわかるけど時間がないんだ。いま会っておかないと、もう二度と会えなく――」

「アンリに俺の気持ちなんてわからない! 適当なことを言うな!」

 その続きを聞きたくなくて、反射的に怒鳴り返していた。

「親も兄弟もいて、パリ中が知り合いのアンリに、俺の気持ちなんてわかるはずないだろ! 俺にとってマリー=アンヌは、大勢のうちのひとりじゃないんだ! マリー=アンヌは俺の、ただひとり特別な――」

「わかるよ! 辛いのは自分だけだと思うなよ!」

 アンリが腕を引っ張り、車の助手席に押し込もうとする。

「家族がいようと何だろうと、俺にとってもマリー=アンヌは世界にひとりだ! 誰も代わりにはならない!」

「ま、待ってアンリ!」

「会いに行こう。俺が連れてくから、会ってやってくれ」

「アンリ、ダメなんだよ、俺は――」

 ルネは、助けを求めるようにアンリの腕に縋りついた。

 抱きしめるたび、どんどん小さくなるマリー=アンヌ。

 私が小さくなったんじゃない、あなたが大きくなったのよ、といつも気丈に笑っていた。

(――嫌だ。会えない。会いたくない)

 非情な現実から目を背けるように必死に首を振った。震えるルネの腕を、アンリが強く握り返す。

「ルネ。楽になるなら、言ってみろ」

 これほど自分が弱いとは思わなかった。失うものがなかったあの頃の方が、今よりずっと強かった気がする。

 アンリ、と掠れた声が喉からもれた。

 どうか助けてほしい。神様、お願いだから。こんなことには耐えられない。

 あの優しい笑顔を、永遠に失うことが。

「――怖い、んだ」

 ようやく声を振り絞ると、背筋に悪寒と吐き気が駆け上った。それを見透かすようにアンリが背中をさすってくれる。

「わかってるよ、ルネ。俺だって怖い。でも……一番怖いのはマリー=アンヌだろ」

 ふいに、アンリが声を詰まらせた。

 驚いて見上げると、その目尻に涙の粒がにじんでいる。なぜだか急に力が抜けて、アンリの肩に寄りかかった。

「最後まで、みんなでそばにいてやろう」




 いつもお喋りなアンリが、ハンドルを握りながら何も喋らなかった。秋の夕暮れに、屋根も壁もない車に乗るのは少し肌寒い。シャン=ゼリゼを一直線に走り抜け、凱旋門を通り過ぎると唐突にアンリがこう言った。

「マリー=アンヌは、俺がプロポーズをした唯一の女性だ」

 ルネはコートの襟をかき合わせながら、アンリの横顔に目をやった。当時のことを思い出しているのか、口許に優しい笑みが浮かんでいた。

「……四歳か、五歳くらいだったかな。初恋だったんだよ。マリー=アンヌは、もう六十近かったと思う。それでも、周りにいたどの女性よりも綺麗だったんだ。いつも優しい匂いがして春の女神みたいだった。お堅いうちの兄貴たちさえ、マリー=アンヌの前ではだらしなく鼻の下を伸ばす。あんなに綺麗で、頭が良くて、茶目っ気があって、魅力的な女性はめったにいない。だから他の奴に取られる前に、慌ててお願いしたんだよ。俺が大人になるまで待ってて、絶対に俺と結婚してね、って」

「アンリらしいね」

 今のアンリをそのまま小さくしたような、少し生意気な子どもが目に浮かんだ。

「……それで、マリー=アンヌは何て?」

「たしか……俺が二十歳になってもまだ自分を一番に好きだったら、そのときにもう一度プロポーズしてね、って」

「マリー=アンヌらしい」

 ルネの口許に、ようやくかすかな笑みが浮かんだ。ルネの横顔を確認し、アンリは目尻を緩ませた。

「……俺も二十歳越えたし、そろそろ本気でプロポーズしてもいいかもな」

「アンリに渡すくらいなら、俺が先にプロポーズするよ」

 そう言い返すと、アンリは大きな口を開けて笑った。

「勘弁してくれよ。お前が出てきたんじゃ決闘でもしないと勝負がつかないだろ」

 アンリが笑いながらハンドルを左に切る。もうマリー=アンヌの屋敷が近い。

「でもきっと……マリー=アンヌは俺たちを選ばないよ」

 マリー=アンヌがいつも少女のような瞳で見上げる、その黒い影を思い出す。

 これほど皆に愛されたマリー=アンヌの愛した相手がヴァンピールだなんて、いったい誰が思うだろう。




 ふたりを迎え入れた女中頭のイザベル夫人は、瞳にいつもの覇気がなく、すっかりやつれ切った顔色をしていた。

 もう子どもの頃のようにルネを邪険に扱ったりはしない。ルネが名門校リセ・ルイ=ル=グランに現れた天才少年だとパリで名を馳せるようになり、年相応の落ち着いた振る舞いをするようになるにつれ、イザベルの態度も変わった。

「……奥様はずっと、ルネさんをお待ちしておりましたよ」

 そう言ってイザベルは、縋るような視線をルネに向けた。マリー=アンヌの寝室に案内したいというイザベルに、アンリはルネひとりだけを行かせた。

 薄暗い廊下の突き当たり。その扉の前で立ち止まり、イザベルはすっと息を吸い込んだ。

「奥様、ルネさんがいらっしゃいましたよ」

 そしてルネに向き直り、見たこともないほど深々と頭を下げた。

「どうぞ、奥様とごゆっくりお過ごしくださいませ」

 イザベルは部屋の扉を押し開け、ルネを中に通すとふたたび扉を閉めた。


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