華の都の紅い夜(3)
ふたりはドゥ・マゴと、パリ最古の教会であるサン・ジェルマン・デ・プレ教会のあいだの道を右に折れ、ひっそりと静まり返る貴族の邸宅街へと足を進めた。
道の両側には、石灰岩で造られた似たり寄ったりの瀟酒な邸宅が立ち並んでいる。重厚なカーテンに縁取られた額縁のような窓。街路に漏れ出す上品なオレンジ色の灯り――
どの屋敷も富貴と格式に足並みを揃え、互いに牽制し、また同調するように、一分の隙もなく美しい。
だがその完璧な並びの先に、人の住む気配のない闇に沈んだ大邸宅がぬっと姿を現した。
幽霊屋敷、とこの界隈で悪評高い、旧モンテスキュー伯爵邸――現オーギュスト・デュラン邸である。主人は使用人も庭師も雇わず、このうらぶれた豪邸にルネとふたりで暮らしている。
のろのろとした足取りで、ふたりは自宅の正面玄関に辿り着いた。
玄関扉の左右には、春の女神フローラと西風の神ゼピュロスの彫像が、いまなお客人を歓迎するように微笑んでいた。その扉を開けた先には壮麗な玄関ホールが待ち構え、着飾った上流貴族が大挙して押し寄せていた時代もあったのだという。
だが残念ながらそれは三十年以上も昔の話だ。
玄関ホールを支えるイオニア式列柱には、ずいぶん前から大きなひびが入っていた。石造りの階段は角が欠け、巨大なシャンデリアは大量の埃を被っている。その黴臭い空間に、蜘蛛の一族の大邸宅だけが粛々と軒を連ねるありさまだった。
主人はこの正面玄関の鍵をいちども開けたことがない。正面玄関を使うことで、自分の存在が人目につくのが嫌なのだろう。いまでさえこの屋敷に人が住むことを知るものは少ない。
ふたりは正面玄関を通り過ぎ、屋敷の角を右に折れた。
小径の先に、外庭から生い茂る草木が黒々とはみ出し、地底の入り口のような陰を作っている場所がある。そのいっそう深い闇の元へルネは足を進めた。
暗がりに目を凝らせば、使用人専用の小さな通用口がある。ルネはポケットから鍵を取り出し、その錆びた鉄扉を慣れた手つきで引き開けた。
――ギギっと軋む鉄の音。足元に流れ出す暗い冷気。主人は影のように音もなく、ドアの隙間をするりと抜けると、ジランドール(枝つき燭台)に火を灯した。
揺れる灯りに照らされ、長いあいだ使用された気配のない、厚い埃をかぶった厨房が浮かび上がる。主人はルネに向かって顎をしゃくり、厨房奥の扉を開けた。
扉の先にあるのは、向かいの棟へ伸びる屋根付きの渡り廊下。主人は燭台片手に渡り廊下を降り、夜の中庭へ足を踏み出した。
屋敷同様、長年手入れをされなかった中庭は、パリの一等地にありがなら山奥の森のようだった。アポロンの彫像も石畳の小道も、たがが外れたように猛威を振るう雑草の波間にどっぷりと沈んでいる。上下水道を引き込む工事で掘り返したはずの地面も、このひと月のうちに、跡形もなく雑草の海に呑みこまれてしまった。
その中庭をコの字に囲む館もまた、時の流れに取り残されたような暗い衰亡の形をしていた。それでもなお、したたかな雑草の進軍を厳粛さをもって押し返す、歴戦の老兵のような気魄がそこにはあった。
「浴室を造る金があるなら、たまには庭師でも雇えばいいのに。俺はヴァンピールと違って虫に刺されるから大変なの。厨房だって一緒に改築してくれたら簡単なスープくらい作れたし、浴室を造るついでにトイレも最新式にしてくれたらよかったんだ。どうせヴァンピールには関係ないんだろうけどさ」
ルネは前を行く主人の背中に、ぶつくさと不平をぶつけた。
雑草の海を掻き分けた先に、ガラス張りの浴室が姿を現す。主人はその扉を開け、ルネを先に中へ通した。
「家なんて安全に眠れればそれでいいんだ。何よりこの幽霊屋敷は、ヴァンピールにはおあつらえ向きの風情だと思わないか」
主人の言い種に、ルネはわざと大きなため息をついた。
浴室に入るとすぐに、ルネは慣れた手つきで風呂の準備をはじめた。蛇口をひねり大鍋に水を溜めながら、薪ストーブに火を入れる。
風呂の準備には手間と時間がかかる。ルネは内心苛々しながら、無言で作業を続けた。
この時間があればドゥ・マゴでカフェ・クレームの一杯くらい、余裕で飲むことができたのに!
主人はと言えば浴室に持ち込んだ肘掛け椅子にもたれ、優雅にプティ・ジュルナル(老舗の新聞名)を読んでいる。蝋燭の灯りにちらちらと映し出される主人の横顔は、やはり蒼白く熱のない、精巧な彫像に似ていた。
「ねえ、何で侯爵夫人は気を失ったの?」
湯が沸くのを待つあいだ、ルネは主人と新聞のあいだに強引に身体を割り込ませた。主人の深い蒼の瞳が、じろりとルネを睨みつける。
「……お前もなかなかにしつこいな」
「オーギュが女の血を吸うときは、いつもセックスの最中なの?」
ルネの明け透けな物言いを聞き、主人は眉間に深い皺を寄せた。
「お前はもう少し、言葉遣いを正さなくてはいけない」
わかったよ、とルネは不満げに白い頬を膨らました。
「――オーギュストさんがお食事を召し上がるときは、いつもご婦人とのお戯れの最中なのですか?」
思いもよらぬ反撃を受け、主人は不覚にも頬を緩ませた。潔く敗北を認めたらしく、渋々ルネの質問に答えはじめる。
「……いろいろ試したが、あの瞬間が一番仕事がやりやすい。絶頂に達すると同時に血を吸われると、貧血で意識が朦朧とするんだ。女にとってはそれが滅多に味わえない快感だという。くれぐれも殺さない程度でやめるのが原則だ。殺してしまったら元も子もない。女が満足すれば、私は彼女の常連になれる。私は安定的に腹を満たすことができ、女は安定的に愉しむことができる。持ちつ持たれつ、互いにいい関係だ」
主人は抑揚のない声で説明し、ふたたび新聞に目を落とした。
「吸い跡は残らないの?」
ルネは身を乗り出し、なおも主人に質問を続けた。主人は新聞を読むのを諦め、サイドテーブルに置いた。
「もちろん首筋に、ふたつの赤い跡ができる。だが女はそれを〈愛の印〉だと勘違いする。紛れるように、あらかじめその周辺にはキスマークを残しておく」
「上手いもんだね!」
ルネは無邪気な感心の声を上げた。
主人はちらりとルネの背後に目をやり、椅子から立ち上がった。ストーブの上で湯気を上げる大鍋をヴァンピール特有の怪力で軽々と持ち上げ、浴槽にぶちまける。ルネはそれに水を足し、風呂の温度を整えた。
そのあいだに主人はボウ・タイを解き、するすると服を脱いだ。浅く湯を張った浴槽に、主人の蒼白い裸体が浸かる。ルネも着ていた服を脱ぎ捨て、後を追って飛び込んだ。
主人はざぶざぶと顔を洗い、ルネに背中を向けた。
「髪を洗ってくれ」
ルネは主人の髪を手櫛で梳き、手桶で湯をかけた。長い漆黒の髪が水に濡れ、いつにも増して青黒い艶を放つ。
「――簡単に真似できると思うなよ」
背を向けたまま、主人はルネに声をかけた。
「あれをやるには鍛錬が必要なんだ。私も加減がわかるようになるまで、五十人は殺してしまった」
「じゃあ俺は、二十人で覚えるよ」
自信たっぷりのルネの言葉に、主人は苦々しい笑みを浮かべた。