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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
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眠り姫(2)

 放課後ルネはいつものように図書館で勉強をし、日が暮れた後に自宅へと帰った。通用口を開け応接間を通り抜けると、きれいに整えられた中庭が窓の外に広がる。

 昨年の冬、ルネはこの屋敷の「大改造」を決行した。

 庭師を呼び、数十年来自然の力に任せ放題だった中庭の手入れをしてもらい、地面の敷石も新しいものに変えてもらった。厚い埃に埋もれ、古代遺跡のようになっていた玄関ホールもぴかぴかに磨いてもらい、角が欠けた大階段と列柱のひびもきれいに修復した。それを機会に、まったく使用したことのない一階の応接間の壁紙を張り替え、カーテンを買い替え、テーブルやソファなどの家具を新調した。

 主人がこの屋敷の手入れをせず長年放っておいた理由が、ルネにはようやくわかった。一旦工事が入ると、とにかく騒音がひどいのだ。

 昼間はヴァンピールにとっての就寝時間であり、大勢の職人が屋敷を出入りし、どかんどかんと大騒音を立てられてはとても眠れたものではない。さらに何か問題が起こったとき、呼び出されたとしてもヴァンピールは太陽の下に出ていけない。

 ルネがこの屋敷で暮らしはじめて間もない頃、主人は屋敷の手入れもそっちのけで中庭に浴室を増設したことがある。だがいま思い返してみれば、あれはかなり無謀な試みだった。

 職人らの手配はマリー=アンヌが代行してくれたようだが、工事がはじまっても屋敷の主人であるはずのオーギュストは、一度も工事現場に顔を出さなかった。

 何か用事があれば代わりに十三歳の――しかもどう見てもこの屋敷の息子とは思えないみすぼらしい少年が応対していたので、業者にはかなり不審な顔をされたものだ。

 今回の工事は、学校の冬休み期間、ルネが日中自宅にいる時間に行った。さすがにこの歳になれば、ルネが工事の依頼や支払いをしても業者は不審な顔をしなかった。

 帰宅したルネは自分の部屋に鞄を置き、隣の主人の部屋を覗き込んだ。部屋の中は薄暗く、主人はソファにもたれかかり燭台の下で本を読んでいた。

 ただいま、というルネの声に主人はちらりと振り返った。おかえりと小さく呟くと、また手元の本に視線を戻す。

 ルネは主人の隣に割り込み、両膝を抱えて座った。そして、本を読む主人の横顔をじっと見つめる。

 ――蝋燭に照らし出される蒼白い輪郭。はじめて出会ったあの夜と、何ひとつ変わらない。

 この部屋の中にいると、時が止まっているような錯覚を起こした。自分は順調に歳をとり、背丈も伸び、顔立ちもずいぶん大人びたというのに――

 たったの数年で街の姿も変わった。道路を走る自動車の数も増え、つぎつぎに新しい商店やカフェができる。人々の服装も動きやすく簡素なものへと変わりつつあった。

 急速に流れ去る時間の中、主人だけが永遠に、ひとつの場所に留まり続けている。

「……ねえ、オーギュ。スイスで暮らしたことってある?」

 唐突にそう切り出すと、主人は静かに顔を上げた。どうしてそんなことを言い出すのかと勘繰るような視線だった。

「短期間であれば、何度か」

「ジュネーヴは?」

「あそこはフランス語が通じるから楽だ。スイスの中では都会だよ。レマン湖を見渡す美しい街だ。パリに比べれば田舎だが」

 ふうん、とルネは相槌を打ち、黙りこくった。主人は本に視線を戻したが、その妙な沈黙に気づいたのか、ふたたび顔を上げた。

「それがどうしたんだ」

「……一緒に行く?」

 そう口にすると、主人は一瞬、不意をつかれたような顔をした。

 これでも何気ないふうを装って尋ねたつもりだった。だけど実際は、心臓がばくばくとうるさい音を立てていた。

 主人はヴァンピールであることを周りの人々に気づかれぬよう、五年を目処に各地を移動し続けてきたという。パリに腰を落ち着ける前はウィーンに五年、ミュンヘンに五年、ブリュッセルに五年ほどいたようだ。

 主人との会話の断片を繋ぎ合わせてルネはそう推測していたが、つぎに移動する場所については一度も話題に上ったことがない。

(――もしかしてオーギュは、俺をパリに置いていくつもりなんだろうか)

 それが気がかりで仕方ないのに、怖くてずっと聞けずにいる。孤児院から連れ出され、この家にやって来たあの夜以来、主人に捨てられてふたたびひとりになることを、自分は何よりも恐れている。

「一緒にって、どういうことだ」

 主人は眉間に皺を寄せ、ルネに聞き返した。

「ジュネーヴ大学に、フェルディナン・ド・ソシュールっていう比較言語学の偉い先生がいてね、こっちに来て勉強しないかって」

「ほう、それは大層なことだな。お前は本当に優秀だよ」

 その言葉には特に裏もなく、素直に感心しているような口ぶりだった。

 主人はふたたび視線を落とし、本のページを捲った。つぎの言葉を待ってみたが、どうやら主人は話を続ける気がないらしい。

 ルネはぐっと腹の底に力を入れ、自ら本題に切り込んだ。

「……そろそろオーギュも、他の街に移動しなきゃならないんだろ?」

 その瞬間、主人の動きがぴたりと止まった。

 つう、と冷や汗が背筋を流れていく。この奇妙な沈黙は、心臓に悪すぎる。

「……移動は、しばらくしないつもりだ」

 ただそれだけを答え、主人は本に視線を戻した。

(そんなの、何の答えにもなっていない!)

 心に押し込めた不安が今にも爆発しそうになる。

 しばらく、ってどれくらい? しばらく、が終わったら移動するんだろ? どこに行くかもう決めているの?

 もちろん、俺のことも連れて行ってくれるんだよね?

 聞きたいことは山ほどあるのに、どれひとつ言葉として出てこない。

「マリー=アンヌの体調が悪いんだ」

「えっ……?」

 予想もしない話の流れに、たくさんの不安が一瞬で吹き飛んだ。

「本当に? だって最後に会ったときには、全然――」

 マリー=アンヌと最後に会ったのは夏の終わり、ルネのエコール・ノルマル準備級への進級を祝う席でのことだった。

 マリー=アンヌはとても喜んでくれた。

 ルネがどんどん立派になって、これほど嬉しいことはない、私も頑張って長生きしなきゃねと、自分に言い聞かせるよう繰り返した。

 たしかに、初めて会った頃に比べればひと回り痩せた印象はあるが、人一倍健康には気を遣っていて、一度も大きな病気をしたことがない。

 そのマリー=アンヌが、まさか。

「夏の疲れが出たのかもしれない。マリー=アンヌもいい歳だ。いつかはこういう時が来るとは思っていたが――」

 感情を押し殺したせいか、主人の声は普段よりさらに平坦だった。夜の海のような瞳の奥に、隠しきれない絶望が見え隠れする。

「そんなに――悪いの?」

 その問いに主人は返事を返さなかった。冬のはじめの乾いた風が、首筋を吹き抜けたような感覚がした。

「……こんどの休みにでも、様子を見に行ってやってくれ」

 だがルネは返事をしなかった。そしてつぎの休みが来ても、マリー=アンヌに会いに行かなかった。



 以前に一度だけ、主人に尋ねてみたことがある。

 なぜマリー=アンヌがいるのに、パリ中に愛人を作るのかと。

 そのとき主人はこう言った。

 彼女は私のためなら迷わずすべてを投げ出すだろう。だから彼女に、すべてを求めてはいけないんだ。




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