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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第三章 夜霧に灯る
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眠り姫(1)

 学生食堂の大きな窓に、黄金色の光が差していた。色づいた銀杏の古木が、学生たちを見守るように窓から顔を覗かせる。

 一九〇四年、秋。

 ルネは騒がしいリセ・ルイ=ル=グランの学生食堂で、給食のパンを齧りながら手元の冊子に視線を落としていた。

 人文級と呼ばれる第三年級を終えたルネは、本来なら二年かかる修辞級と哲学級をどちらも一年で終えた。最終年度にはバカロレア(高等教育入学資格)を取得し、この秋ルイ=ル=グランの中に置かれているエコール・ノルマル(高等師範学校)への入学のための準備級へと進学した。

 ルネがルイ=ル=グランに入学し、早五年近くの月日が経過していた。オーギュストと暮らしはじめた頃に十三歳だったルネは、いまや十七歳となっていた。

「何読んでるの?」

 突然耳許に声がして、ルネは小さく飛び上がった。振り向くと、給食のトレイを持ったレオナルドが悪戯な笑みを浮かべている。

「驚かすなよ。スープがこぼれただろ」

 くすくすと肩を揺らしながら、レオナルドはルネの隣に腰を下ろした。

 レオナルドは現在、リセの最終課程である哲学級に属している。おそらく哲学級も今年度で終え、来年度は地元イタリアの大学へ進学するだろう。

 レオナルドはルネが左手に持った冊子を覗き込んだ。

「ああこれ、ソシュール先生が初めて書いたっていう論文? この前の特別講義でもらったの?」

 ルネはソーセージを頬張りながら頷いた。

「理解できる? 僕にはちっともわからなそうだけど」

「まあ、何となくね。これを十四のときに書いたなんて信じられない」

 フェルディナン・ド・ソシュールは高名なスイスの言語学者であり、ジュネーヴ大学の教授である。先日コレージュ・ド・フランス(フランスの学術研究の頂点に位置する国立教育機関)で特別講義が開かれ、ルイ=ル=グランの学生の多くもその講義を聴講しに行った。

「何ていう論文だっけ?」

「えっとね、『ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根に還元するための試論』」

「うわあ。天才って怖いわ」

 レオナルドはルネと顔を見合わせて笑った。

「でもルネだってもうドイツ語も読めるもんね。英語とイタリア語なんてあっという間に習得しちゃったし。いまは何語を勉強してるんだっけ?」

「……リトアニア語とサンスクリット語」

 正直に答えると、レオナルドは黒い瞳を見開き爆笑した。

「――馬っ鹿じゃない! 違う、間違えた。馬鹿じゃなくて、天才!」

「馬鹿にしてる?」

「違うよ、語学馬鹿って言ったの」

「ほらまた馬鹿って言った!」

 ふたりの笑い声が賑やかな学生食堂の喧騒に重なる。

 最初に出会ったときからレオは何ひとつ変わらない。この明るい笑顔を見るたび、レオがそばにいてくれてよかったとルネは常々思う。

 論文の続きを読んでいると軽く肘で小突かれた。顔を上げると、レオナルドが廊下の方を顎でしゃくる。

「ルネ、見て。あの子たち、さっきからこっち見てるよ。文法級の子かな? ルネのファンクラブかも」

 そう言われて視線を向けると、十歳ほどに見える数人の生徒がぱっと柱の影に隠れた。

 ルネが飛び級を重ね、他の追随を許さない高成績を重ねるにつれ、周りの視線は羨望と尊敬、さらに崇拝に近いものへと変わった。

 孤児院育ちであることも、片目であることも、名門貴族のモンテスキューが後ろ盾にあることも、いまや「不幸な生い立ちからのし上がった天才少年」を引き立てるためのスパイスでしかない。世間の評価とはまったく勝手なものだとルネはうんざりする。

 もう誰もルネを嘲ったりしない。だがその一方で、それまでとは違う類の厚い壁がルネの周囲にできあがっていた。

 「ルネは自分たちとは違う、特別な人間だ」という壁である。

 下級生は言うまでもなく、クラスメイトでさえ遠巻きにルネを崇めていた。いまやルネとふつうの友人として付き合おうとする勇敢な者は、ひとりとしていない――レオナルドを除いては。

「可愛いね。僕らにもあんな頃があったのかなぁ。ルネも出会った頃は小さくて可愛かったのに、ほらもう、こんなにでっかくなっちゃって」

 レオナルドは自分より頭ひとつ分背の高いルネに、羨むような視線を投げた。

「俺、いま伸び盛りなんだよね。レオは昔と変わらず、いまも可愛いよ」

「うるさいな! 僕んちは父ちゃんが小さいから仕方ないの! これでも兄弟の中では健闘してる方なんだから!」

 レオナルドはルネに抗議するように机を叩く真似をする。ルネは笑い声を押し殺し、小さく肩を振るわせた。

 こんな冗談を言い合えるのも、この学校で唯一レオだけだ。

「そう言えばソシュール先生、ルネが質問をしに行ったらすっごく嬉しそうな顔してたよね。ジュネーヴ大においで、一緒に研究しようなんて乗り気になっちゃって。本当によくモテるよね、ルネは」

「それって、モテるって言うの?」

「モテるでしょ。学長も先生たちも、ルネルネって大騒ぎじゃない。本当に羨ましい限りだよ。ルネが飛び級してくれたお陰で、ようやく僕も学年一位が取れるようになったから、それには感謝してるけどさ。一位を取ったってルネのせいで全然目立たないし、ちっともモテないじゃないか。ほら、ファンクラブもまだルネのこと見てるよ」

 レオナルドが指差すと、キノコのように飛び出していた小さな頭が、ぴょこんと柱の影に引っ込んだ。

「俺じゃなくてレオを見てるんじゃないの?」

 適当にあしらうと、レオナルドは大袈裟にショックを受けた顔をする。

「そういう慰めはやめて。僕だって傷つくんだからね」

 レオナルドのおどける顔がおかしくて、ルネは肩を揺らして笑った。そしてチーズを齧るレオナルドにこう耳打ちする。

「だけど俺は、この学校で一番レオが好きだよ」

 ごくりとチーズを呑み込み、レオナルドは絶句した。

「――そういうところだよね! 自覚がないようだけど、そういうところだからね、ルネ!」

 ふたりが談笑する姿を、他の学生たちは今日も遠巻きに眺めている。

 ルネほどではないが、レオナルドだって相当の秀才だ。きっと、ギリシャ哲学における魂の不滅性についての議論あたりで盛り上がっているのだろうと推測しながら。

「ところでルネはさ、本気で留学を考えたりしないの? 比較言語学、興味あるんでしょう?」

 そうだなあ、ともぐもぐ口を動かしながら、ルネは遠い目をした。

 現在ルネは、エコール・ノルマル入学のための準備級にいる。約二年の準備課程を経て入学試験に受からなければ、フランス最高峰のエコール・ノルマルには入学できない。 

 正式名称エコール・ノルマル・シュペリュールは、リセの教授や学者の養成を目的とした知的エリート養成機関だ。エコール・ノルマルの学生はノルマリアンと呼ばれ、国家公務員と同様の身分を有し、学費が無料である上に給与まで支給される。

 ルネがごく少数の優秀な学生しか入ることのできないエコール・ノルマル準備級へと進級できたのは、昨年度のコンクール・ジェネラルにおいて哲学級の最優秀栄誉賞を獲得し、学長の推薦を受けたためである。ルネはその推薦に快く応じた。

 大学進学さえもためらっていたルネがエコール・ノルマルへの進学を志した理由は、ごく単純なものだった。エコール・ノルマルに入学すれば、学生でありながら高額な給与を支給されると聞いたからだ。

 金はいくらでも必要だ。()()()()()()()()()ためには。

 だがレオナルドの言葉で、はたと気づいた。主人がパリに腰を据えてから、すでに五年目に入っている。主人はそろそろ別の土地への移動を考えているかもしれない。

(――ジュネーヴ大学。スイスか)

 悪くないな、とルネは思った。今夜、主人に話をしてみてもいいかもしれない。


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