ヴェルサイユの記憶(2)
「――あの日、私はパリにいたんだ。パレ・ロワイヤル(王族の城館の中庭に建設された商業施設。パリ随一の盛り場だった)の画材屋で師匠に頼まれた用事を済ませてね、師匠が間借りしているアトリエに早く帰ろうと思っていた。
そのとき突然、『ネッケルが罷免された』との報せが、ヴェルサイユからパレ・ロワイヤルに舞い込んだ。ネッケルは当時の財務総監だったが、進歩派として民衆からの人気が高い人物でね。この報せにパレ・ロワイヤルはにわかに騒然となったよ。
そうこうするうちに、ある青年がカフェのテーブルに飛び乗り、叫び声を上げた。『ネッケルの罷免は、国民に対する裏切りだ。今晩にも軍隊が我々を殺しにやってくるだろう。市民諸君、我々の自由を守るため武器を取れ!』とね。その掛け声が火種となって、民衆は一気におかしな興奮状態に陥った。人々のあいだに積もり積もっていた宮廷への不満が、その報せを引き金にして爆発したような感じだった。
――目の前が真っ暗になったよ。ついにヴェルサイユとパリ市民の戦いがはじまってしまったのだと思った。何より最初に思ったのは、あの人のことだったんだ。早くこの状況を彼女に知らせて、いますぐヴェルサイユから逃げるよう説得しなければ、とね」
(――フランス革命のはじまりだ)
授業で聞いただけの知識なのに、その切迫した光景が見てきたかのように目の前に浮かんだ。
「演説を続ける青年の周りにどんどん人が押し寄せた。私はその流れに逆らって、ヴェルサイユに向かおうとしたんだ。だが運悪く、知り合いの男に見つかってしまってね。そんなに慌ててどこに行くつもりだ、まさかヴェルサイユにこのことを知らせにいくつもりじゃないよな、と捲し立てられた。男の大声を聞いた周りにいた者たちも、まるで裏切り者を断罪するように私を取り囲んだ。
こいつは宮廷画家だぞ、ヴェルサイユの犬だ、と男が叫んだ。すると、裏切り者、恥さらし、お前は民衆の敵だ、と口々に罵られた。どうか行かせてくれと懇願すると、突然背後から殴られたんだ。――それからはもう袋叩きだ。私は動けなくなるまで暴行され、パレ・ロワイヤルの中庭に打ち棄てられた。最後の力を振り絞ってようやく木陰に隠れてね、そこで少し気を失ったのかもしれない。気づいたときには夜の闇の中にいたよ」
主人の痛みを想像した瞬間、ルネの背筋に震えが走った。ぎゅっと胸にしがみつくと、主人が頭を撫でてくれる。
「――パレ・ロワイヤルはすでに閑散としていてね、遠くで軍隊と民衆が衝突する大騒音が聞こえたよ。全身が粉々になったような激痛で意識が朦朧として、その場から動くことができなかった。だがこのままここで野垂れ死ぬわけにはいかない。早くあの人の元へ行かなければと、気ばかりが焦ってね。
すると突然――暗闇の先から私に呼びかける声がした。目を開けると、闇から抜け出たような背の高い影が、上から私を見下ろしていた。漠然と、人間ではないと感じたよ。でもそれが神なのか悪魔なのかもわからない。その黒々とした影の中に、青い宝石のような目玉がふたつ、煌々と光っていた」
それが誰なのかルネにはわかった。その人はきっと――自分があの夜に出会った黒い影と同じ類ものだ。
「助けて欲しいか、とその男は私に聞いた。私は、どうか助けてくれ、と答えたと思う。あの人が無事でいる姿を、どうしてもこの目で確認したかった。それさえできれば、もういつ死んでも構わなかったんだ。
するとその影が突然、私の首筋に噛みついた。――血を吸われているのだと気づいたよ。こんなことはまともじゃない、早く逃げなければと思ったが、急速に血を失って意識が混濁し、何の抵抗をすることもできなかった。
するとこんどは鼻先に血の匂いがした。だけどそれは私の知っている血の匂いとは違う――熱のない、凍るように冷えた血の匂いだ。男が自分の手首に傷をつけ、私の口許に押し当てていたんだ。
これを吸え、と彼は言った。何をしているのかまったく訳がわからなかったが、彼の血が舌に触れた瞬間、心臓が別の生き物のように脈打った。そして私は――夢中で彼の血を貪り飲んだよ。突然湧き上がった本能的な衝動に抗うことができなかった。
その冷え冷えとした血が全身を激流のように駆け巡り、殴りつけるように暴れ狂っていた。恐ろしいほどの力が沈黙しかけていた身体を目覚めさせ、蘇っていくように感じたよ。頭にかかっていた靄がさあっと晴れて、清々しいほどだった。それなのに身体の芯は、氷のように冷えていくんだ。まるで死人のようにね。そうしてその夜――私は〈彼ら〉の仲間になった」
ルネは呆然とした。それは主人がヴァンピールになったときの話だった。
(自分の身体から血を抜いて、代わりにヴァンピールの血を取り込むんだ――)
今まで何度尋ねても、主人はその方法を教えてくれなかった。それなのにどうして急に打ち明ける気になったのか――
「オーギュの大切な人はどうなったの……?」
そう尋ねると、主人はルネの頭を胸に抱えた。
「……はっきりとはわからない。ヴァンピールへ肉体が変化し、それに馴染むのに時間がかかったのだろうね、しばらくのあいだ、私は身動きすることができなかったんだ。
男は動けない私を抱え、仲間の元へ連れて行ったよ。パリの東にヴァンピールが寄り集まって暮らしている屋敷があってね、その地下室で数日のあいだ眠り込んでいたらしい。そのあいだに――バスチーユが民衆の手によって陥落した。
私が長い眠りから醒め、ようやくヴェルサイユに到着したときにはすでに彼女の姿はそこになかった。民衆からの報復を恐れた宮廷貴族の多くが、バスチーユ陥落以降、つぎつぎと国外へ亡命したんだ。後から聞いた噂によれば、彼女も縁類を頼ってオーストリアへ向かったが、その途中、暴徒化した農民に見つかり――なぶり殺されたと」
苦しげに、主人は声を詰まらせた。
考えなしに尋ねてしまったことを後悔していた。こんなとき、いったい何を言えばいいのだろう――
ルネは唇を噛み締め、主人の冷たい胸にただぎゅっと抱きついた。
「もっと早くに知らせに行ければ、何かが変わったかもしれないのに――結局私は、あの人を助けられなかった」
主人の話はそれで終わりだった。
鼓膜を圧迫する静寂。凍りついたまま二度と音を立てぬ心臓――
主人の魂は、今もパレ・ロワイヤルの暗い庭をひとりで彷徨っているのかもしれないと思った。前にも後ろにも進めず、百年を越える孤独をひとりで抱えながら。
その冷え切った魂を、どうしたら温めてやることができるのだろう。
「……ねえ、オーギュ。その日のことは、後悔してもし切れない、辛い記憶かもしれない。だけど俺にとっては、幸運のはじまりだよ」
主人の薄い背中に腕を回し、両脚を絡めた。それに応じるように、主人の腕がルネを強く抱き返す。
「もしその日オーギュがヴァンピールにならなかったら、百年以上も先に生きている俺と出会うことはできなかった。俺を見つけてくれたあの夜、オーギュは俺に新しい人生を――新しい命を与えてくれた。だから、俺の命はぜんぶ、オーギュのものだよ」
出口のない、暴力と絶望の日々。それはまるで、この街の下に果てしなく延びる、光の届かぬ下水道にも似ていた。
誰ひとり手を差し伸べてはくれなかった。どれだけ強く祈ろうと神様だって助けに来なかった。
こんな人生が続くなら、いつ死んでも構わないと思っていたのだ。
だけどあの夜、この優しい影だけが、死にかけていた魂を救ってくれた。
柔らかな漆黒の海。
血の通わぬその胸に、温もりを移すようにくちづけをする。
「だからぜんぶ、オーギュにあげるよ」
《第二章 青を泳ぐ蜜蜂 完》




