少年と海(5)
率直に尋ねると、何だよ急に、とアンリは吹き出した。だが答える気はあるようで、うーんと唸り声を出す。
「そうだなぁ。考えてみれば、昔から好みは変わらないな。美人で、頭が良くて、色気があって――金髪碧眼なら言うことない」
金髪碧眼という言葉に、こんどはルネが吹き出した。
仮装舞踏会に集結した〈チーム・オーギュスト〉の面々が頭をよぎる。これでは主人の好みとまったく同じではないか。
「……あんたまさか、俺が金髪碧眼だから気に入ったわけじゃないよな?」
「はっ? 何言ってんだよ!」
アンリは素っ頓狂な声を上げ、勢いよく振り向いた。そのはずみで片側のタイヤが路肩に乗り上げ、車体が大きく跳ね上がる。
ルネの細い身体はふたたびシートから滑り落ち、足元の隙間にすっぽり挟まった。
「……あっぶねえな、この馬鹿! ちゃんと前見て運転しろよ!」
「馬鹿はどっちだ! お前が変なこと言うからだろ!」
シートによじ登りながら、平然を装うアンリの横顔をからかうように覗き込んだ。
「……もしや、図星だった?」
「そんなわけあるか! 馬鹿!」
「焦ってる?」
「うるさい! 蹴り落とすぞ!」
口汚く自分を罵るアンリを見て、ルネは腹を抱えて笑った。
そうこうするうちに、ようやく車は目的地に到着した。
それは山間にできた小さな湖だった。ひっそりと透明な湖面が、まるで鏡のように向かいの山々をくっきりと映し込んでいる。
湖畔を囲む野原には、赤のコクリコ、青の矢車菊、白のマーガレットが思い思いに花を咲かせ、鳥のさえずりと虫の羽音を除けば何の音もしない。
地面に枝を這わせるオークの根元にヒマワリ色のテーブルクロスを広げ、その上に持参した昼食を広げていく。
――生ハム、ソーセージ、鴨のテリーヌ、ソシソン(サラミのような乾燥ソーセージ)、オイルサーディン、チーズ、トマト、レタス、それらを好きなようにバゲットに挟む。ロレーヌ風キッシュに、こんがり焼けたローストチキン。新鮮なメロンとアプリコットとマスカット。そしてプロヴァンス特産のロゼワイン。
あれを取れ、これを食えと大騒ぎしながら腹一杯に詰め込むと、ふたりは身動きが取れなくなり、テーブルクロスの上に寝転がった。
掌の形をしたオークの葉の隙間に、抜けるような青空が覗いていた。白い雲が音もなく流れていく。湖からやって来る涼やかな風が、枝葉と野原とふたりの前髪を、さわさわと揺らした。
遠くで教会の鐘が鳴りはじめ、山間にこだました。
(何時の鐘だろう――)
ついそんなことを気にする自分の馬鹿げた習慣に笑った。
時間なんて意味をなさないこの瞬間に、わざわざ時を数えるなんて。
青い空の向こうから天の音楽が降ってくる。この美しい世界を讃え、祝福するために。
その奇跡の響きにただ耳を預け、ルネは目を瞑った。
「……なあ、ルネ。出発する前、ハンモックの中で何の本読んでたの? あれ、ラテン語だろ?」
隣で寝ているアンリが、退屈したのかそう聞いた。
「――ああ、ウェルギリウスの『農耕詩』だよ」
正直に答えると、もはや呆れ声でアンリが笑う。
「はあ? お前、ラテン語で詩集なんて読んでるわけ? さすが全国一位の読書は違うな」
そうアンリにからかわれ、ルネは唇を尖らせた。
「……ウェルギリウスは悪くないよ。蜜蜂の巻なんてとりわけ描写がきれいだし」
「それ、どんなやつなの? 教えろよ」
そう言われたルネは頭の中でページを捲った。一番お気に入りの詩節だ。
「Quod superest, ubi pulsam hiemem sol――」
するとアンリは、がばっと身を起こした。
「おい、ストップ、ストップ! お前まさか、ラテン詩を暗記してるのかよ! いったい脳みその中、どうなってんだ」
開始早々に邪魔が入り、ルネは不満げに眉をひそめた。
「……気に入った部分だけだよ」
「ルネ教授。ご存知の通り、こちらはラテン語が不出来ですので、是非フランス語でお願いします」
アンリはふざけた口調で恭しくへりくだり、ふたたびごろりと寝転がる。
湖面を渡ってきた風が、わさわさとオークの枝を揺らした。
「――さて、つぎのこと」
金色の太陽が 冬を大地の下に追い払い
夏の光をもって 天空を開け広げたとき
ただちに蜜蜂は 草地と森を旅して
緋色の花々を収穫し
軽やかに 流れの表面を舐める
それから 私の知らない何かしらの楽しみから
巣の中の子どもたちを 喜んで養い
それから 技も巧みに 新鮮な蜜蝋を作り
粘り強い蜂蜜をこね上げる
このときより 巣から飛び出した群が
澄み切った夏の空を抜けて
空の星々のもとへ泳いでいるのを 君が見上げるとき
そして その群れが風に流されるぼんやりとした雲のように見え
君が驚くようなときは
心して気遣うがよい
彼らはいつも 甘い水と葉の茂った覆いを
求めているのだから
切りのいいところまで朗誦すると、耳の脇でそよ風のようにアンリが笑った。
「――蜜蜂か。たしかに悪くないな。夏休みの俺たちみたいだ」
ちらりと隣を窺うと、アンリは頭の下で両手を組み、満足げな笑みを浮かべていた。
なぜかそれをとても嬉しいと思い、でも彼ならきっとそう言うとわかっていたことが不思議だった。
青い空。海と風。木々と花と果実。天を泳ぐ蜜蜂。この地に生きるすべての命を、無条件に明るく照らす。
この世界は、太陽の腕の中だ。
「あんたはさ、蜜蜂じゃなくて、太陽だよ」
ルネは言った。最大級の称賛と親しみを、言葉に込めて。
夕刻ふたりは別荘へと戻り、仮眠をした後に軽く夕食を取った。
また今日も、海の彼方に太陽が沈んだ。爽やかな海風に誘われるように、ルネとアンリは夜の浜辺に散歩に出かけた。
暗い海面も、絶え間ない波音も、最初に見たときのように怖くはなかった。
「なあ、ルネ。ここに来て、よかった?」
靴を片手にぶら下げ、波打ち際を裸足で歩いていたアンリが、ちらりと振り向いてそう尋ねる。
「えっ? 楽しいけど、何で」
ふっと小さく笑い、それならいいけど、とアンリはまた前を向いた。
「……ときどき、心ここにあらずのときがあるからさ。気になるのかな、と思って」
パリに残してきた主人のことを言っているのだと、すぐにわかった。
(たしかに――そうかもしれない)
地中海の明るい太陽、真っ青な海、その潮風の中に、ふと主人の蒼白い横顔を思い出した。
主人が二度と味わうことのできない、目が眩むような太陽の国。それを心から楽しんでいる自分に、主人への裏切りのような、後ろ暗い罪の意識を感じてやまないのだ。
あの夜エッフェル塔のてっぺんで、太陽よりも月を愛すと、その心臓に誓ったくせに。
「……感謝してるよ、アンリ。俺に新しい世界を教えてくれて」
どう、と波が音を立て、海を渡ってきた風がルネの前髪を吹き上げる。
呑み込まれるわけにはいかないのだ。必ず戻らなくてはならないのだから。
――戻れなくなる前に。
アンリは振り返り、そっか、とあまり見たことのない、困ったような顔で笑った。




