少年と海(4)
翌日。遅めの朝食に腹を満たし、ハンモックで読書に勤しんでいると、興奮に目を輝かせたアンリがルネの元へ駆け込んできた。
「ルネ、いまから遠出するぞ! ピクニックに行こう!」
「ピクニックって? どこに?」
「山の方! 早くこっちに来てみろって!」
アンリに腕を引っ張られ、転がり落ちるようにハンモックを降りた。
別荘の表玄関の方へ走っていくアンリの背中を、のろのろと追いかけていく。すると、金属の羽をばたつかせるような爆音が遠くから聞こえてきた。
「ええっ! オートモビル(自動車)!?」
激しく振動する白塗りの車体に、アンリは得意げに寄りかかっている。
「パナール・エ・ルヴァッソール(ガソリン自動車をフランスで最初に製作した自動車メーカー)だ! 最新式だぞ。ニースの知り合いから借りてきた!」
「まさかこれに乗っていくの!? 誰が運転するのさ!」
アンリは当然のように自分の胸を叩いた。開いた口が塞がらない。
「安心しろよ。俺、運転は上手いからさ!」
「上手いって、運転したことあるのかよ!」
「心配しなくていいぞ! この前に知り合いに手解きしてもらったんだけど、上手いって褒められたよ! この車は今日が初めてだけどな!」
「初めてなの!? 冗談だろ!」
ふたりが言い争っているあいだに、料理人が腹を揺らしながらやって来た。昼食を詰めたバスケットを後部座席に積み込むと、紐でしっかりと括りつけはじめる。
アンリは軽々と運転席に飛び乗り、ワイン色の革張りのシートを左手で叩いた。そして早く隣に座れとルネを顎でしゃくる。
自動車には、風除けの為か前面に横長のガラス窓が付いてはいるが、その他には壁も屋根もない。
止まっていてもこんなに揺れるなら、山道を走ったら振り落とされるんじゃないだろうか。
「……あんたといると頭痛がするよ」
「何か言ったか?!」
「何も」
渋々アンリの隣の席によじ登った。アンリは円形のハンドルに片手をかけ、足元のペダルやレバーを確認している。
「こっちがアクセルで、クラッチ……よし、だいたいわかったぞ!」
「俺さ、まさか南フランスで人生を終えるなんて思ってもみなかった」
「お前、何言ってんだよ。たしかに天国みたいな場所に連れてってやるから楽しみにしておけよ!」
「天国じゃなくて地獄かもしれない」
「だから、車の運転なら上手いから安心しろって!」
毎度ながらその根拠のない自信には呆れてしまう。
「あんたのその『俺は上手い』って台詞、口癖なの?」
「口癖というか事実だろ。俺は生まれてこのかた、上手くできなかったことなんて一度もないぞ!」
それ以上、言い返す気力も湧かなかった。勢いづいたアンリを止めることなどこの世の誰にも不可能に違いない。ルネは観念し、背もたれに身を預けて目を瞑った。
「よし出発だ! ちゃんと掴まってろよ!」
掛け声と同時にアンリがアクセルを強く踏み込む。その勢いで、早速ルネの身体がシートからずり落ちた。
「――この馬鹿! ゆっくり走れってば! やっぱり俺を殺す気だろ!」
顔を真っ青にして怒鳴るルネを横目に、アンリは大きな笑い声を上げた。美しい白塗りの高級車は眩い真昼の日差しを照り返し、軽快に別荘の門を抜けた。
スピードに乗った途端、あれほど暴れていたエンジン音がおとなしくなる。鋭く風を切り裂いて、あっという間に市街地が遠ざかった。海岸から離れるとニースはすぐに山道となる。
迫る岩肌。屋根の傾いた古い農家。遠くに見える教会の鐘楼――生い茂る木々が、一本道にまだらな影を落としていた。ふたりを乗せた車は、緩い斜面を軽々と登っていく。
しばらく走ると緑のトンネルがぱっと途絶え、道の右側に明るい視界が開けた。
谷間の向かいの山肌に、瑞々しい緑が整然と列をなしている。
「……ねえ、あれは何? あの緑色!」
「あれ? ああ、葡萄畑だよ。実がなってないとわからないか」
まるで空に駆け上っていくように延々と緑の筋が伸びている。そのひとつ向こうの稜線には、輝くような黄金の帯が。
「じゃあ、あの黄色は?」
「ヒマワリ畑だろ。お前、ヒマワリも知らないのか?」
「知ってるけど、あんなにいっぱい咲いてるの初めて見たから!」
葡萄畑が途切れると、こんどは鮮烈な紫がルネの視界を奪った。
「こんどはぜんぶ紫!」
「ラヴェンダー畑だよ。お前、いちいち驚いていたらキリがないぞ」
ハンドルを切りながらアンリがケラケラと笑い出す。
ルネは前面の窓ガラスに両手をかけ、シートから立ち上がった。
着古した木綿のシャツに光と風が通り抜ける。風船のように膨らむ裾に、頼りないほど細い腰が覗いた。
まだ不健康に白いその肌に、木漏れ日の雨が降り注ぎ、瞬く間に背後へと流れていく。
ルネは抜けるような空を仰ぎ、肺いっぱいに山の精気を吸い込んだ。
――折り重なる緑の濃淡。目が眩むような金と紫。天を覆い尽くす紺碧。その蒼天に真白な雲がぽっかり浮かぶ。
絞り出した絵の具そのままの色が、誇らしげに世界を描いていた。
「山がこんなにきれいだなんて思わなかった」
思ったままの気持ちを声に乗せると、アンリは、ほら、来てよかっただろう、と満足そうに目を細めた。
峠を越え、こんどは転がり落ちるように坂道を下る。すると視線の先に広々とした野原が姿を現した。
淡い緑色に、赤の絵の具をぽつりぽつりとこぼしたように、コクリコの花が咲いている。野原の真ん中には、山の長老のように鎮座する古いオークの木。その根元に、明るい色合いの服を着た数人の人影があった。
小さな白い日傘。淡い黄色やピンク色のドレス。縁の大きな麦わら帽子――皆こちらに向かって、大きく手を振っている。
モネやルノワールの絵画が動き出したかのような光景に、ルネは思わずため息を漏らした。手を振る女たちに応えるように、アンリが高く右手を上げる。
「アンリ。あの人たち、知り合い?」
「いいや。見た感じ、俺たちと同じ、都会から来た金持ちの旅行客だろ」
「こっちに手を振っていたけど?」
「そりゃあ、高級車にいい男がふたり乗っていれば年頃の女は手を振るだろ。南仏のバカンスなんて、いい出会いの場なんだからさ」
いい男がふたり、か。これにはさすがに苦笑するしかない。
「残念ながら、片方は外れだけどね」
「どうだろうな。お前、頭がいいんだから将来有望だろ。もし俺より金持ちになったら、極上のブイヤベースを奢ってくれ」
(アンリより金持ちだって?)
そんな仮定、この世界がひっくり返らない限り冗談にしかならない。あまりに馬鹿馬鹿しくて、声を上げて笑った。
「大富豪のモンテスキューを抜くなんて、ロチルド(ロスチャイルド)並のことをやらなきゃ無理だろ」
「じゃあ、五人の息子を各国に派遣してみるか?」
悪戯な目でアンリがそう言うので、
「そうだね。債券を暴落させて、ひと稼ぎしてさ」
ルネはその提案を引き受けた。
「国王を焚きつけて、戦争起こして、がっぽり儲けて」
アンリが口の端でにやりと笑う。
「金の力に物を言わせて、裏側から世界を牛耳ってやる!」
ルネは握った拳を高く掲げた。アンリは大きな口を開け、豪快に笑った。
「お前に全然似合わねーな! やめだ、やめだ。ルネは野良猫に餌やってるくらいでちょうどいいや。ブイヤベースならいつでも俺が奢ってやるからさ」
その頼もしい言葉を聞き、握った拳からすっと力が抜ける。ルネもケラケラと笑いながらシートに沈み込んだ。
「あんたって、やっぱりいい男だな」
「そうだろ。ようやくわかったのかよ」
ルネは隣でハンドルを握るアンリの、奔放だがやはりどことなく品のある横顔を眺めた。
名門貴族の、大金持ちの御曹司。若くハンサムで、多少強引なところはあるが底抜けに明るく、おおらかで頼もしい。女性からすれば、これほど理想の結婚相手はいないだろう。
いったいアンリは、どんな女性を生涯の伴侶に選ぶのだろうか。
「ねえ、アンリってどんな女が好きなの?」




