少年と海(3)
***
誰かが名前を呼ぶ声がした。
ルネ。ルネ。
真っ新な白い光に塗りつぶされた世界で、羽毛のように軽く、上へ下へと浮遊する。遠くに優しい波音が、音楽のように鳴り続けていた。
潮の香り。熟れた果実の甘ったるい匂い。真夏の松林。南国の花。それらを背中に乗せたそよ風が、戯れるように鼻先をくすぐっていく。
聞き慣れない小鳥のさえずり。誰かの指が優しく髪を梳く。そのすべてが心地よくて、目を開けることができない。
「――ルネ、そろそろ起きろよ。腹減っただろ?」
一瞬で我に返り飛び起きた。夢から現実に舞い戻ると、鼻先が触れるような距離に顔を引き攣らせたアンリがいた。
「おおい、びっくりさせんな。頭突き食らうところだったじゃねえか」
「――わ。ご、ごめん。いま何時? 寝坊した?」
慌てふためくルネを見て、アンリはケラケラと笑い声を上げた。
「もうすぐ昼になるところ。気持ちよさそうに寝てたから起こすのも悪いと思ったんだけど、飯の準備ができたって言うからさ。そんなに慌てなくていいぞ。時間も人目も気にせず、自堕落な生活を送るのがバカンスの醍醐味だしな」
昨晩は眠気と疲労で限界だったのか、この部屋まで来た記憶がない。改めて周囲を見渡すと、ルネは真っ白な天蓋付きの大きなベッドの上にいた。
開け放たれた大きな窓から、目も眩むような金色の陽が差し込んでいる。部屋の壁には青い絵の具で描かれた美しい幾何学模様。部屋の床には泳ぎ回る海洋生物がモザイクで描かれていた。
「こっちに来てみろよ」
アンリはルネの腕を引っ張り、ベッドの上から引きずり下ろした。そのまま窓辺まで連れて行かれ、裸足のままベランダに出た。
「……眩し」
パリとは比べ物にならない強烈な熱と光に、一瞬くらりと眩暈を感じた。
真っ直ぐに空を目指す棕櫚の木。青々と茂った松林。それを抜けた先に白い砂浜が続き、真昼の太陽を照り返す真っ青な海面があった。
昨晩感じた、呑み込まれるような圧迫感はもうどこにもなかった。青の宝石のような清々しい輝きが、目覚めたばかりの心を明るく沸き立たせる。
ここは岬の付け根の小さな入江で、ここから見える砂浜はこの別荘のプライベートビーチなのだとアンリが隣で説明をした。
「夢の続きみたいだ……」
「最高だろ、青い海、広い空! フランスの楽園だよ!」
ベランダから庭を見下ろすと、昨晩挨拶を交わした料理人と使用人の男がヒマワリ色のテーブルクロスを広げている。ふたりはルネの姿に気づくと、旦那様ぁ、お疲れは取れましたか、お腹が空いたでしょう、すぐに準備ができますからねぇ、と明るい南仏訛りで口々に話しかけてくる。
風の流れが変わり、トマトと魚介を煮込んだ匂いが鼻先をかすめた。その匂いに刺激され、腹の虫がぱちりと目を覚ました。
「どうだこの匂い、よだれが出るだろ? 本場物のブイヤベース、食いに行こうぜ!」
ふたりは別荘の階段を駆け降り、燦々と陽が降り注ぐ夏の庭に出た。
すぐに目についたのはレモンの古木だった。膨らみはじめの緑の実を、枝にたわわにぶら下げている。
レモンの木の下に準備された、円いテーブルと二脚の椅子。さっき見たヒマワリ色のテーブルクロスの上には、見たこともないご馳走が並んでいる。
焼きたてのクロワッサンとブリオッシュ。数種類のチーズ。ゆで卵、ツナ、トマト、アンチョビの乗った色鮮やかなサラダ・ニソワーズ(ニース風サラダ)。新鮮なフルーツの盛り合わせ。
大きな枝が海風に吹かれるたび、ご馳走の上に落ちたまだら模様が水面のように揺れ動く。足元には、濃紅の夾竹桃が火花を散らすように咲いていた。
早速アンリは搾りたてのオレンジジュースのピッチャーを傾け、ふたつのグラスに注いだ。
「……これ、朝食なの? こんなに豪華な朝食って、いままで食ったことないんだけど」
ご馳走の山に圧倒されたまま、少し間の抜けた顔をして席に着いた。アンリはマスカットを一粒口に放り込み、ははっと短く笑った。
「朝食というか、昼食というか……。食べ終わったらちょっと泳ぎに行こうぜ。また昼寝に戻っても構わないけど。真昼の外遊びは結構暑いからさ」
ふたりが話をしているうちに、元敏腕ホテルマンがふたりの前に大きなスープ皿とスプーンを置いた。その脇にバゲットと、ニンニクと赤唐辛子の効いたルイユと呼ばれるソースを添える。
テーブルの支度が済むと、小さな鍋を持った料理人がにこやかに近づいてきた。
レードルでオレンジ色のどろりとしたスープを掬い、丁寧に皿に注いでいく。立ち上る優しいトマトの香りが鼻腔をくすぐり、ルネの胃腸がぱちりと目を覚ました。
「さあ、旦那様たち。バゲットにこちらのソースを塗って、チーズと一緒にスープに入れてお召し上がり下さいねぇ。本日は、ラスキャス(カサゴ)、ガリネット(ホウボウ)とヴィヴ(ハチミシマ。プロヴァンス地方のキス科の魚)、ソル(舌平目)、ムール貝と子ガニを煮込みましたよ」
アンリがするのを横目で見ながら、スープに浸したバゲットを口に運んだ。ルイユに引き立てられた魚介の旨味が、ふわりと口内に広がっていく。
見た目よりずっと、さっぱりと優しい味だった。昨晩の疲れを癒すように、胃の中にじんわり染み渡る。
「……こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べた」
それは嘘偽りのない心からの言葉だった。ルネの賛辞を聞いた料理人は、樽のような腹を満足げに揺らした。
(美味しくて、きれいで、気持ちよくて、ちっとも現実感がないや)
ぼんやりと夢見心地のまま、スープを口に運び続ける。
パリでは感じたことのない鮮明な夏の光。松林を右へ左へ揺らす潮風。立ち上る濃厚な木々の匂い。鳴り止まぬ緩い波の音。目の前に並ぶ、食べきれないほどのご馳走の山――まるで別の人生に迷い込んだみたいだ。
「あんたって、いつもこんな生活してんの?」
少し非難まじりに尋ねると、アンリは白い歯を見せて笑った。
「さすがにいつもじゃない。ときどき、ね。うちの母親はサロンだの夜会だの貴族同士の付き合いで忙しいけど、俺はあんまり興味ないな。変に持ち上げられたりして、気分悪いしね。俺がモンテスキューじゃなけりゃ、誰ひとり見向きもしないくせに」
「貴族が嫌いなの?」
だがその質問には、うーんと唸った。
「嫌いっていうのとも違うけど……お陰で何不自由なくに暮らせているわけだし。せいぜいこの立場を利用して、自分の好きなように人生を楽しんでやろうと思っているわけ」
いかにもアンリらしい答えに、こんどはルネが笑った。
「アンリは将来、何かやりたいことがあるの?」
質問責めだなぁ、とアンリは眉尻を下げ、早速スープのお代わりを呼んだ。
「まあ何か、面白いビジネスでもしようと思ってる。いま知り合いの米国人からいろいろ教わっててさ――そうだ、よかったら俺と一緒にやろうぜ! お前、頭いいだろ」
思わずスープを吹き出しそうになった。相も変わらず無鉄砲なことばかり言う。
「そんなに簡単に言うなって! 別に頭がいいわけじゃないし」
「ルイ=ル=グランの学年一位が言うと嫌味にしか聞こえないな。ルイ=ル=グランで一位ってことは全国で一位ってことだろ」
「今回はたまたま試験の点が良かっただけだよ。成績が良いからって仕事もできるとは限らないだろ」
「そうかなぁ。使う脳みそは同じだろ。大きなことは俺が全部やるから、あとの細かいことは全部お前がやってくれよ。お前、そういうの得意そうだよな?」
「何だよ、その適当な計画は。あんたって本当に、言うことやることすべてが大雑把だな」
「いいんだよ。これで案外どうにかなるんだ」
その言い種に呆れてしまい、ルネはケラケラと笑った。
実際、これまでずっとどうにかなってきたのだろうと思う。たとえ何かに失敗したとしても、それを失敗と捉えない楽観的な強靭さがアンリにはあった。
ふたりにお代わりのスープを注ぎながら、料理人がルネに笑いかける。
「旦那様ぁ。お食事の最後には、グラス・ア・ラ・ヴァニーユ(ヴァニラアイス)とソルベ・オ・シトロン(レモンシャーベット)もご用意してありますよ。どうぞごゆっくり召し上がり下さいねぇ」
その魅惑的な言葉の羅列に、ルネの細い喉がごくりと鳴った。
遅めの朝食を腹一杯に詰め込むと、ふたりは波打ち際で水を掛け合って遊び、それに飽きると、海風と波音に揺られながら木陰のハンモックで昼寝をした。
午後の三時を回る頃、ふたりは市街地へ散歩に出かけた。
オレンジやサフラン色の壁がひしめき合うイタリア風の街並みは、作り物めいた可愛らしさと、どこか懐かしい生活感が奇妙に入り混じっていた。
迷路のような細い裏路地や坂道をふたりで探検する。色鮮やかな野菜や果物を売る屋台を見学し、水揚げされたばかりの魚介類を売る一角に出、太陽の肌色をした陽気な物売りたちの声に背中を追われながら、街の中心の広場に戻った。そこで土産物や特産品を売る店のショーウィンドウを覗き込んだ。
マルセイユの石鹸。瓶詰めのオリーブ。ラヴェンダーオイル。草花や動物の描かれたムスティエ焼きの陶器。艶めく宝石のようなフリュイ・コンフィ(フルーツの砂糖漬け)――
潔癖症の主人には石鹸でも買っていこうか、マリー=アンヌにはきれいな置物でもプレゼントしよう。そんなふうに思いを巡らすことすら初めてで、ルネは少し自分が大人になったような、そわそわとした気分を味わった。
その晩は海沿いのレストランで新鮮な魚介類を愉しみ、星の降るような夜空の下をふたりで歩いて帰った。