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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第二章 青を泳ぐ蜜蜂
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少年と海(2)

 潮の香り。濃い草木の匂い。南国の花の香り。食べごろを過ぎた果実の匂い――馴染みのない匂いが混じり合いながら風に乗り、ルネの前髪の隙間を通り抜けていく。

 滞在することになる別荘は、ギリシャ様式で建てられた白亜の館だった。パリのけばけばしさとは無縁の真っ新なカンバスのような白壁に、赤のブーゲンビリアが炎のように揺れていた。

 間もなく太い列柱のあいだからふたりの男が姿を現した。

 アンリが現地で雇ったという料理人と使用人だった。ふたりは地中海の太陽さながらの明るさでルネとアンリを歓迎した。

 料理人の方は、樽のような腹をしたお喋り好きの中年男。一方、料理以外の諸々の雑務を担当するという老齢の男は、元はモナコのホテルマンだったという。とうの昔に引退し、繁忙期にのみ金持ちの旅行客に雇われ、孫たちのために小遣い稼ぎをするのだと笑った。

 アンリはふたりと世間話をしながら、別荘の中に足を踏み入れた。ルネもその後を追って別荘の玄関をくぐる。

 その瞬間、驚きの声が自然とルネの口から漏れた。

 玄関ホールの中央に、緑の蔦に覆われた噴水があった。その噴水を中心にして、神殿のような太い円柱が立ち並んでいる。

 その白い柱の表面に、蜂蜜色の光の粒が駆け回っていた。

 光の粒の正体を探して上を見上げると、高い天井から吊るされた真鍮のランプが夕暮れの風の中でくるくる踊ると踊っている。その回転するランプから弾き出された光が、蜜蜂のように飛び回っているのだった。

 足元に目を落とせば、ギリシャ神話の世界がモザイクタイルで描かれている。半馬半魚のヒッポカンポスが戦車にポセイドーンを乗せ、大海原を駆け回る姿が。

 アンリは、籐椅子とカフェテーブルの並ぶラウンジを脇目も振らず通り抜けていく。その突き当たりにあるガラス扉を勢いよく押し開けたところで、ぱっと背後を振り返った。

「ルネ! こっちに来てみろよ!」

 その呼び声に誘われるまま、ルネも小走りでラウンジを通り抜けた。外へ出ていくアンリの背中を追い、閉まりかけた扉の隙間をすり抜ける。その瞬間――

 どん、と腹の底を打つような音が身体の芯に響いた。それは、生まれて初めて耳にした海の唸りだった。

 浮かれていた気持ちが怯み、思わずその場に立ち竦んだ。

 天へ吸い込まれていく棕櫚の影。さわさわと潮風にそよぐ生い茂った松の枝。頭上を覆う黒々とした古木が、輝き出した星の光を遮っている。

 先を行くアンリが振り返り、大きく手招きをした。ルネは気持ちを奮い起こし、海に向かって歩みを進めた。

 足元は徐々に砂浜となり、松林を抜けた途端ぱっと視界が開けた。

 アンリの背中の向こう側に、濃紺の空間がぽっかりと口を開けていた。靴を脱ぎ捨てたアンリが、着の身着のままその空間へ飛び込んでいく。

 穏やかな夕闇に大きな水飛沫が上がった。

 それは、真昼に目にした海とはまるで別のものだった。得体の知れぬ巨大な生き物が静かな唸りを上げている。

 一体いつからここにあり、一体いつまでここにあり続けるのか――

 低い波が、振り子のように時を刻んでいる。鳴り止まぬ波音に眩暈がした。

 その悠久の狭間にどれほどの命が生まれ、朽ち果て、呑み込まれていくのか。

 積み重なっていく時の死骸。まだ形にもならぬ時の胎児。巡り巡る命の澱。永久不変の宇宙――

 不死なる神そのもの。

 呑み込まれてしまう――そう思った途端、ルネの背筋に震えが走った。

 その暗い胎内に呑み込まれたら、肉体も魂も形を失い、原初の一滴へと還されてしまう。そうすれば二度と、同じ場所へ戻ることはできないのだ。

 ――――戻らなければならないのに。

「ルネ」

 波音の狭間に、アンリが自分を呼んだ。

「早く、こっちに来いって。気持ちいいぞ!」

 立ち竦むルネを不審に思い、アンリはざぶざぶと海から上がった。ルネの顔を下から覗き込み、ぎゅっとその手を握りしめる。

「……どうした? もしかして怖い?」

 自分の手を握る圧力に、ルネははっと正気を取り戻した。

「うん……少し怖い」

 珍しく口から素直な弱音がこぼれる。アンリは握った指に力を入れ、ぐいとルネを引っ張った。

「心配すんなって。溺れないように、ずっと繋いでいてやるから」

 止まらない波音。潮の香り。舐めるように近づく波の指先。ルネの足先をかすめ、ふたたび遠ざかっていく。

 アンリは手際良くルネの靴を脱がせ、後ろに放り投げた。

 砂浜はまだ昼間の熱を帯びていた。その熱が、裸の足の裏を柔らかに包み込んでいく。

 すると海面が、薄く透明な羽をすうっと伸ばし、逃げる間もなくルネの足元をさらった。

 思ったほど冷たくはなかった。戯れるように肌を撫でた波が、音もなく過ぎ去っていく。

「ほら、怖くないだろ?」

 暗い波打ち際に、アンリの声が頼もしく響いた。ルネは小さく頷いた。

 ぬるい波が近づいては離れ、そのたびに足が沈み込んでいく。さあっと波が引くのを見ていると、まるで疾風の背に乗っているような感覚がした。

 目にも留まらぬ速さで、暗い海面を駆ける、海鳥――

 ふと身体のバランスを失い、慌ててアンリの腕に縋りついた。

「お前って、度胸があるのかないのか、よくわかんねえな」

 からかうようにアンリが言う。だけど、強がってその手を離すような余裕もない。

 無性にオーギュに会いたいと思った。いますぐあの黒い外套の中に戻りたかった。

 あの小さな漆黒の海は、この世で唯一、安心して泳ぎ回れる場所だったのだ。

「お前、ちょっと疲れたんだろ? もう別荘に戻ってゆっくり休むとするか。普段の揺れないベッドが今夜はありがたく思えるぞ」

 アンリは笑いながら、脱ぎ散らかしたふたり分の靴を手際良く拾い、片腕に抱えた。

「朝が来れば、この入江が全部青に染まって、天国みたいにきれいなんだ。きっとお前も気に入るよ」

 そしてもう片方の腕で、労るようにルネの肩を抱いた。ルネはその胸にもたれ、少しのあいだ目を瞑った。


 ――漆黒の闇。鳴り続く波音が、揺り籠のようにルネを揺らした。



 

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