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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第二章 青を泳ぐ蜜蜂
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少年と海(1)

 それから二ヶ月は、あっという間に過ぎた。第五年級の最終試験、ルネははじめて学年一位の成績を収め、学長から表彰を受けた。また学長の判断により第四年級を飛び級し、来年度より人文級と呼ばれる第三年級に進級することが決定した。

 学年二位はイタリア人のレオナルドだった。レオはその表彰状を胸に、カエサルの凱旋よろしく威風堂々ヴェネチアの家族のもとへと帰っていった。

 試験結果の報告を受けた主人は、珍しく手放しでルネを褒めた。主人からそれを伝えられたマリー=アンヌも、まるで我がことのように大喜びした。

 これまでわざと解答を間違えていたのは、勉強しろとうるさい主人への反抗心からだった。だけどこれほどふたりが喜んでくれるなら、いい成績を取るのも案外悪くないとルネは思った。

 それに試験の成績がどうだろうと、ヴァンピールになることに支障はないはずだ。

 翌日、ルネを祝賀するための三人だけの晩餐会がマリー=アンヌ邸で催された。

 マリー=アンヌはよく笑い、よく喋り、上機嫌で歌まで歌った。主人は代わる代わるふたりとワルツを踊り、最後にはふたりを両腕に抱え、凱旋門の上まで飛んだ。そこから三人で夜のシャン=ゼリゼとエッフェル塔を眺めた。

 初夏の夜風に吹かれながら、ルネの肩に寄りかかったマリー=アンヌがこう呟いた。

 楽しいわね、ルネ。まるで本当の〈家族〉みたい。

 そのときにふと気づいた。主人は子どものいないマリー=アンヌの息子代わりにしようと、あの夜自分を連れ出したのではないかと。だけどこんな片目の孤児では、美しく裕福なマリー=アンヌには到底釣り合わないではないか。

 胸の奥が奇妙にむず痒くて、どんな顔をすればいいのかわからなかった。ただ肩に寄りかかる温もりを感じながら、マリー=アンヌの手を軽く握った。

 夢のように、優しい夜だった。



 夏休みがはじまった。

 主人に買ってもらった小ぶりの旅行鞄に、ルネは少しの衣服と古本市で買った本を数冊詰め込んだ。主人はルネに一週間過ごすには十分なほどの小遣いを渡し、パリ・リヨン駅でルネを見送った。

 駅で待ち合わせをしたアンリは、白のコットンシャツに、明るいベージュのベストとズボンを合わせ、頭には麦わらのキャノチェ(カンカン帽)を被っている。

 前に会ったときとは打って変わりまさに海辺の装いだったが、これまで見た中で一番よくアンリに似合っているとルネは思った。一方のルネは、代わり映えのしない細いブルーのストライプのシャツにグレーの吊りズボンだった。

 パリとニースを繋ぐパリ・リヨン・地中海鉄道(PLM鉄道)は、パリ市の南東にあるパリ・リヨン駅(リヨン方面に向かうことからこの名が付いた)から発着する。

 パリ〜ニース間はおよそ一、〇〇〇キロ。鉄道で丸一日かかる。

 深夜十二時、ふたりはパリを出発する寝台列車に乗り込んだ。

 これは富裕層向けの食堂車付き豪華列車であり、アンリが予約した一等個室はまるで高級ホテルのような内装だった。

 鉄道も、舞踏会も、きっとブイヤベースも――本当はすぐそばにあったはずなのに。

 ずっと知らなかった。この先も知らなかったかもしれない世界。

 アンリと一緒にいると別の世界を覗き込んだような気持ちになる。

 列車はもくもくと白い煙を吐き、高らかに汽笛を鳴らした。それを合図に重い腰を上げ、のろのろと走り出した。

 巨大な鉄の塊のように思えた列車は、一旦加速してしまえば漆黒の突風のようだった。真夜中の市街地を勇ましく走り抜けると、一路初夏の地中海を目指し疾走する。

 ルネは二段ベッドの上段によじ登り、下段の方にアンリが寝た。

 初旅行の興奮と緊張に包まれ、まんじりともしないまま夜が明ける。フランスの南東部に位置するリヨンに着いたのは朝の九時過ぎだった。

 見慣れぬフランスの田園風景。青々と茂る森林と牧草地。突然姿を現す一面の花畑――そのときどきに点在する牧歌的な村々が、代わる代わる窓の外を流れていく。

 浮き足立ったパリの旅行客を満杯に詰め込んだ汽車は、いくつもの河を越え、いくつものトンネルを抜け、足取り軽くフランスを南下した。

 食堂車で朝食を取り、外の風景にも見飽きると、ここからが旅の本番だった。

 狭い空間に閉じ込められたまま、丸一日続く移動時間。だがアンリとふたりで過ごす時間は、予想よりずっと気楽で快適だった。

 アンリは喜劇俳優のように面白おかしく話を語るのが上手く、ルネは何度も腹を抱えて笑った。

 堅物で有名なアンリの上の兄さんが、仮装舞踏会でルネが賭けポーカーをした遣り手のジョゼフィーヌに首っ丈になった時期があり、結局こっぴどく振られて五キロも痩せてしまったが、そのお陰で身体が軽くなり、最近はじめた自転車レースで見事入賞を果たしたという話が一番面白かった。

 それ以外にも、いま流行りのオートクチュールのクチュリエ(デザイナー)や新しくパリに出店するブティックのことなども、アンリはやたらと詳しく知っていた。

 アンリが喋るのに疲れると、こんどは下らない言葉遊びをして時間を潰した。お菓子の袋を開け、酒の瓶を開け、何試合もカードゲームを繰り返し、読書をし、昼寝をした。それにも飽きるとラウンジや食堂車に出向いた。

 午後三時を回り、列車はようやく地中海に面する港町マルセイユに到着した。そこからサン・ラファエルとカンヌを経由し、最終目的地であるニースへ向かう。そのあいだ列車はときどき海岸沿いを走った。

 初めて見る海は、真っ青な絵の具を溶かしたような色をしていた。

 海の青とそれより明るい空の青。二色の青が混じらないよう果てなく伸びる水平線。

 地中海の強い陽射しが海の表面で躍っていた。その眩い光の中に白いヨットの帆が揺れている。

「本当に、青くて、広い……」

 車窓から顔を出したルネの口から、そんな言葉がぽろりとこぼれた。それを耳にしたアンリは、お前にしては何のひねりもない感想だな、と豪快に笑った。

 夜の八時頃、列車はついにニース駅に到着した。それぞれに旅行鞄を抱え、ふたりは駅舎の外に出た。

 はじめて目にするニースの街はパリに比べればずっと素朴で、人の動きが緩慢なせいか時間が止まっているように見えた。どこにも海は見えないのに、もう潮の香りが漂っているような気がする。日没にはまだ時間があるが、陽の光は力を緩め、柔らかに西の空へと傾いていた。

 ふと気づくと隣にアンリの姿がない。焦って周囲を見渡すと、アンリは客待ちの辻馬車の中で一番上等の馬車を捕まえ、値段の交渉をはじめていた。

 恰幅の良い中年の御者の男は、その青年がパリからやって来た大金持ちだと早々に気づいたようで、機嫌良く鼻歌を歌いながらふたりの荷物を軽々と荷台へ積み込んでいく。

「ああ、ここまで長かったな。さすがにヘトヘトだ」

 馬車に乗り込んだアンリは座席にだらしなく沈み込み、珍しく疲れ切った声を出した。

「俺は結構楽しかったな。初めて見るものばかりだったし」

 ルネは目を輝かせ、心の底からそう言った。

 初めての寝台列車でほとんど眠れぬまま長い夜を過ごしたこと。食堂車で滑る皿を押さえながら食事を取ったこと。窓の外を流れていく知らない土地の景色――

 生まれ育った街から遠く離れどことなく不安なのに、その不安さえも新鮮で心が躍った。

 馬車はニースの街の中心部を抜け、丘を登り、また下り、一時間ほど走った。ルネの眠気が限界に達し、ついにうとうとしはじめた頃、馬車はようやく目的地の別荘に到着した。

 馬車を降りたルネを出迎えたのは、陽の落ちた海風と、むせかえるような夏の匂いだった。

 

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