リンゴと野良猫(5)
「こいつ、お前の飼い猫?」
「ううん、野良猫。腹が減るとたまにここに来るんだ」
「へえ。よく懐いて可愛いな。どことなくルネに似ているような気がするし」
そう呟いて、アンリは指先でくすぐるように猫の額を撫でた。
(アンリは動物が好きなのかもしれない)
ぼんやりとそう思った。もしかして自分に構うのも、野良猫に餌をやるような気持ちなのだろうか――
猫を撫でるアンリの横顔をじっと見つめていると、視線に気づいたアンリが顔を上げた。間近で目が合い、すぐにその視線が、すっと左に動く。
突然、アンリの指が目の前に伸びた。その指先が、伸ばしっぱなしの前髪を掻き分けようとするのに気づいた瞬間、ルネは持っていたハムを投げ捨てた。
「お前……その目、どうしたんだ?」
アンリの声に、驚きと戸惑いが滲んでいる。ルネは慌てて自分の左目を手のひらで覆った。
「あの眼帯――ただの仮装じゃなかったのか」
(そうか、皆ただの仮装だと思っていたんだ)
主人がお揃いの眼帯を付けていたから、余計仮装に見えたのかもしれない。もしかしたら主人は、ルネを気遣って自分の眼帯を用意したのだろうか。
アンリはすっと指先を引っ込めた。
「……病気か? それとも怪我したのか?」
ルネは無言のまま首を横に振った。
「誰かにやられたのか?」
その問いにも上手く答えられなくて、ぐっと声を呑み込んだ。
気味が悪いと言われたことは何度もある。だけど必死に隠してきたわけじゃない。
嫌だと思う奴は勝手に離れていくんだし――ずっとそう思っていたのに。
だけどあの夜、もしアンリにこの目のことを知られていたら――どうだっただろう。
気味が悪いと思われたら嫌だと思う気持ちは、たしかに多少あったのだ。
「……もしや孤児院にいたときか? お前、そんなに酷いところで、いままでよく頑張ったな」
ルネの膝頭をぽんぽんと叩き、アンリは立ち上がった。その手のひらが思うよりずっと温かで、無性に泣きたい気分になった。
気づけば黒猫はハムをきれいに食べ終え、音もなく姿を消していた。
アンリはバルコニーの手すりから身を乗り出し、雑草だらけの中庭を眺めている。ルネも黙ったまま、アンリの肩の向こうに広がる空を見上げた。
さっきよりは少し陽が傾いてきたようだ。それでも五月のパリは二十一時を過ぎなければ陽が沈まない。
膝を抱えたままぼんやりとしていると、ふとアンリが振り返った。
「そうだ、外に晩飯でも食いに行く? 何でも好きなものご馳走するぜ」
気前良くそう言って、白い歯並びをにいっと覗かせる。
(――外食かぁ)
ルネはもともと食が細い性質であり、食事にさほど興味がない。だが、「外食」という言葉にはどこか心惹かれるものがあった。
「うーん。好きなものって言われてもなぁ……」
実を言えば、人生でまだ一度も飲食店で食事をしたことがなかった。主人が外食を嫌がるからだ。
ヴァンピールは基本的に血液以外の食事を摂らない。口にするのは赤ワインがせいぜいだから、食事に手をつけず周りに怪しまれるのが嫌なのだろう。
だから何を食べに行きたいかと聞かれても、さっぱり見当がつかない。
「遠慮せず食いたいもの言ってみろよ、ブッフ(牛肉)でもユイットル(牡蠣)でも。カナール(鴨)、シュヴルイユ(小鹿)、ラパン(ウサギ)、ペルドロー(山ウズラ)、オマール、エスカルゴ、ソル(舌平目)――プロヴァンスのブイヤベース、ノルマンディーのクリーム煮込み、アルザスの肉料理、イタリア料理、中華料理――居酒屋でも構わないぞ」
見たことも食べたこともない食材と料理の羅列に圧倒され、ルネは返す言葉を失った。どうやらこの道楽息子は、食い道楽でもあるらしい。
それに選択肢を出されたところで、選べないことに変わりはなかった。かと言ってアンリに任せたら、目玉が飛び出るような高級店に連れて行かれそうな気がする。
もしそんな店に連れて行かれたら、こっちは緊張でまともに食った気がしない。果たしてこのお坊ちゃんは、庶民が行くような食堂やカフェに行ったことがあるのだろうか。
「……あのさ、ブイヤベースって、何?」
そこでとりあえず、初めて耳にした単語を聞き返してみることにした。
「南仏の郷土料理! 香味野菜と魚介をトマトで煮込んで――」
そう説明している途中で、アンリの瞳がきらりと輝いた。
「――なあ、プロヴァンスに食いに行く? 本場のブイヤベース!」
「はっ? いまから?」
目を丸くして聞き返すと、アンリは勢いよく吹き出した。
「違う違う。バカンス(夏休み)に入ったらって話。せっかく食うなら本場のやつ食ってみたいだろ。パリっ子憧れのメディテラネ(地中海)で、美味いもん腹いっぱい食おうぜ!」
「えっ? どういうこと? 旅行ってこと?」
ルネは目を白黒させた。今夜の夕食の話をしていたはずなのに、どうして南仏に行く話になるのだろう。アンリにかかるといつも話が大袈裟になる。
そういえば、あの晩無理やり押しつけられた宝石飾りもまだ返せていない。アンリの機嫌を損ねないように、早く返してしまわないと――
「五年くらい前に、ニースの近くに別荘を買ったんだよ。なかなかいいところだぞ、すぐ目の前が小さな入江になっててさ。市街地からちょっと離れてるから、静かで落ち着いてるし。夏休みは家族の誰も使う予定がないから、ふたりで好き勝手に使おうぜ!」
面食らうルネを置き去りに、アンリはひとりで話を進めていく。
(ニースに別荘だって? しかも子どもがふたりきりで?)
あまりに現実味のない話に、景色がぐるぐる回転しはじめた。
考えてみれば、生まれてこのかたパリから一歩も外に出たことがない。それなのにアンリときたら、思いつきで外国のように遠い場所に行こうと言い出すのだから――
「――あんたといると、いつも眩暈がするよ」
「あはは。それは光栄だな」
アンリはルネの言葉を受け流し、清々しく笑った。心はすでに真夏の地中海にあるようだ。
「いいぞ、海は。青くて、広くてさ」
(――青くて、広い、海か)
そういえば今日の昼間、レオから海の話を聞かされたばかりだった。外食同様、海という言葉にもひどく心惹かれるものがあった。
「なあ、一緒に行くだろ? 毎日海で遊んで、木陰で昼寝してさ、美味いもの腹いっぱい食おうぜ」
アンリは人懐こくルネの顔を覗き込む。だけどそんなアンリに、前から抱いていた疑問があって――
「ところであんたってさ……何でわざわざ俺に構うの? 他にいくらでも友達が――どうせ美人で金持ちの恋人が行列になるほどいるんだろ? せっかくの休みを俺と過ごしていたら、周りから恨みを買うんじゃない?」
するとアンリは政治家のような真面目腐った顔をした。
「まあ……正直言えばだな、女連れだとこれがまた面倒なんだよ。外聞が悪いから旅行に行くならちゃんと婚約をしろって親父がうるさいのなんのって――俺まだ十七だぜ? しばらく結婚なんてする気はないし、男同士の方が気楽で都合がいいんだよ」
美人で金持ちの恋人が行列をなすことについては、一切否定をしない。
「それなら、同じ世界の男友達にすればいいだろ」
それもなあ、とアンリは言葉を濁した。
「お前ってさ、俺がモンテスキューだとか気にしないだろ?」
「何言ってんの? 気にしてるに決まってるだろ!」
すかさず異議を唱えると、アンリは大口を開けて笑った。綺麗に並んだ白い歯が、真夏の雲を思い出させた。
「気にした上でその態度なら問題ないや。なあ、一緒に行くだろ? 絶対に楽しいからさ」
もう断るような理由もなかった。気づけばいつもすべてがアンリの思い通り。
驚くほど勝手気儘で強引なのにそれでもいいかと思えるのは、その太陽のような明るさで目が眩んでしまうからなのだろうか。
「そうだね――とりあえずオーギュに聞いてみるよ」
胸の高鳴りを隠すように、わざとそっけない返事をした。アンリは悪巧みでもするように、にいっと口の端を上げた。
〈アンリと夕飯を食べに行く〉――そう主人に書き置きを残し、日の暮れぬうちに家を出た。その後ふたりは、セーヌ右岸の繁華街でレストランとカフェをはしごした。
日付が変わる頃、ルネはようやく自宅に戻った。真っ直ぐ主人の部屋に向かい、ドアの隙間を覗きこむ。主人は愛人のもとから早々に帰ってきたようで、黒の夜会服がソファに脱ぎ捨ててあった。
主人はその部屋の奥で、こちらに背を向け、真剣にカンバスに向き合っていた。
ルネは音を立てぬよう、ゆっくりと部屋の扉を閉めた。そろそろと主人の背中に近づき、その首元に両腕を絡める。
主人は振り向きもせず、ルネに話しかけた。
「――お前、酒臭いぞ。こんな夜中まで遊び歩くとは、私の知らぬ間に立派な不良少年になったものだな」
自分に文句を言う広い背中に、ルネはだらりと体重をあずけた。酒が全身に回って、足元がふわふわと覚束ない。
「アンリにあちこち連れまわされた。あいつ、パリ中に知り合いがいてさ、行く先々で奢ってもらったんだよ。そうそう、ムーラン・ルージュの踊り子たちにも会ったんだ。俺のこと、ちゃんと憶えてるって」
「……まさか娼館には行っていないだろうな?」
主人の説教くさい声が、耳に心地いい。
「そんなことしないってば」
「まあ、それも時間の問題だな。アンリめ、ルネに悪いことばかり教えやがって」
そんなふうに言う主人が無性におかしくて、その首筋に顔を埋めて笑った。
「――アンリがさ、夏休みに入ったらニースの別荘に行こうって」
「ニース? どのくらいの期間だ」
「一ヶ月――って最初に言われたけど、さすがに長すぎると思って、一週間だけって約束した」
「カジノには行くなよ。まあ、アンリの金ならどうなろうと知ったこっちゃないが」
「行かないってば。若者らしく健全に海で遊ぶんだよ。あとブイヤベースを食べるんだ」
そうか、楽しんでこい、と主人は絵筆を置き、ルネの頭を乱暴に撫でた。その指の感触がもうすでに恋しいような気がした。
「――オーギュは、俺がいなかったら寂しい?」
どうせ、寂しくない、と言われるだろうと思ったのだ。それなのに主人はこう言った。
「そうだな――きっと寂しいだろうな」
思いもよらないことを言われて、胸の奥がぎゅっとなる。
「今日はやけに素直だね」
からかうように言い返すと、主人はかすかに肩を揺らし声もなく笑った。
「あいつといると、世界が広がるだろう。いろんなものを見てくるといい。この世界には美しいものが山ほどある」
主人は、岩の上に横たわる人魚のような裸婦の後ろに、紺碧の海を描いていた。
「青い海も空も、太陽も、私には教えてやれないものだ」
諦めと懐かしさの入り混じる物悲しい声だった。その声が耳の奥にしっとりと根を下ろす。
ひどく心許ない気分になって、その肌の冷たさを覚え込むように、強く頬に押しつけた。
ねえ、オーギュ。俺はいつだって必ず、オーギュのもとに戻ってくるよ。
心の中で、誓いのように囁きながら。




