吸血鬼と老婦人(2)
ふたたび外套を開くと、ふたりはオテル・ド・ヴィル(市庁舎)脇の街路樹の下、街燈の光の届かぬ暗がりの中にいた。この周辺には商業施設もないため、夜になれば人影もまばらでひっそりと静まりかえっている。
ヴァンピールは空間を瞬間移動できる。自分だけでなく、その腕に抱えた者もともに移動が可能だ。ただし、その移動距離は無限ではない。グレフュール侯爵邸からだと、この辺りが限界のようだった。
あと二、三度続けて飛べば、自宅の中まで帰ることもできるだろう。だが主人は、夜のパリを自分の足で歩くことを好んだ。太陽の光を浴びることのできないヴァンピールにとって、夜は自由の許される貴重な時間だからだ。
闇から現れたふたつの影は、セーヌの中洲、シテ島へと渡されたアルコール橋へ向かった。セーヌに架かる橋としては最初の、橋脚を持たない頑丈な鉄橋である。
夜の石畳に、足早な主人のヒールが神経質に鳴り響く。歩くのが早い主人の背中を、ルネは小走りで追いかけた。
立ち並ぶ街燈が、アルコール橋の上を等間隔に照らしていた。その明かりの下へ入るたび、主人の長細い黒の輪郭が、闇から抜け出すようにぬっと現れた。走るルネの鼻先を、セーヌの腐った水の臭気がときおりすっとかすめて消える。
主人は臭いものも汚いものも嫌いだ。だが五十年前に比べればパリの街もずいぶんと清潔になったのだと、ときどき懐かしむような口ぶりで言う。でも、あまり明るくなりすぎるのも考えものだ、と。
オーギュ、とその背中に呼びかける。
主人は胸まで届く黒髪を揺らし、ちらりと後ろを振り向いた。礼儀にはうるさい主人だが、年下のルネにこんな呼び方をされても嫌な顔ひとつしなかった。
「あの女の人は死んだの?」
「死ぬものか。私はそんなへまはしない。眠らせただけだ」
「寝たの? あれの瞬間に?」
主人は、子どもらしからぬ口をきくルネを神経質に見下ろし、黒い眉をひそめた。
「……学校の勉強も、このくらい熱心になってくれるといいんだが」
「ラテン語もギリシャ古典もクソ喰らえだ! あんなもの、生きるために何の役にも立たない。俺はヴァンピールになるんだから!」
ルネは憤った。
主人はヴァンピールであるくせに、ルネをリセ(八年制高等中学校)に通わせた。バカロレア(高等教育入学資格)を取得して大学へ進学し、将来は医者か弁護士になれ、そして美人と結婚して家庭を持てと言うのだ。
金も地位も女もクソ喰らえだ。ヴァンピールに必要なのは、吸血の技だけなのに!
だがルネの言葉を聞いた主人は、口の端に乾いた笑いを漏らした。
「生きるためだと? ヴァンピールは死人なのだと何度言えばわかるんだ。あと、言葉遣いが汚すぎる。改めなさい」
主人に窘められたルネは、不満げに金色の眉を寄せた。
「ラテン語とギリシャ古典には排泄物を――」
「そういう意味じゃない」
ふたりはシテ島へ渡り、ノートル=ダム大聖堂の正面を横切った。巨大な双塔が暗い天へと吸い込まれていくさまは、ぞっとするほど荘厳だった。
主人はその前でふと足を止め、胸の前で十字を切った。
他のヴァンピールがどうであるかは知らないが、ルネの主人に限っては十字架もキリストも恐れない。むしろ一般のパリ市民よりも敬虔なほどだった。
直進し、つぎはサン=ミシェル橋を渡る。こちらは石造りの三連アーチ橋だ。
セーヌ左岸に出、道なりに進むと、サン=ジェルマン大通りに突き当たる。広々としたその道をこんどは右へ折れる。
現在ふたりはパリの一等地、フォーブール・サン=ジェルマン(現在のパリ7区)の旧モンテスキュー伯爵邸に暮らしている。主人はこの屋敷を拠点とし、およそ五年を目処に国内外を点々と移動し続けてきたという。
ヴァンピールは外見上歳を取らないので、一箇所に落ち着いて暮らすことができない。主人は新しい土地に行くとはじめは二十五歳だと名乗り、三十を数える頃には他の土地に移動する。
主人が久々にパリに戻ってきたのはルネと出会ったのと同じ頃、いまからちょうど一年ほど前だった。それ以来、主人は数十年ぶりにフォーブール・サン=ジェルマンに腰を落ち着けた。
フォーブール・サン=ジェルマン――いまや大豪邸が軒を連ねるセーヌ左岸の貴族街だが、遥か昔、この土地は何もない原っぱであったという。だが十七世紀頃より貴族が競って邸宅を建てはじめ、十八世紀末にはヨーロッパ随一の貴族街へと発展した。
いまから三十年ほど前、主人はモンテスキュー伯爵夫人マリー=アンヌから、彼女の所有するフォーブール・サン=ジェルマンの豪邸を借り受けた。
その大金持ちの老婦人は、主人の五十年来のパトロンヌ(女性のパトロン)である。かつ主人の最も長い愛人であり、ルネを除けば彼がヴァンピールであることを知る唯一の人間でもあった。
「ねえ、オーギュ。俺、カフェ・クレームが飲みたいなあ」
暗い通りの先に、〈ドゥ・マゴ〉から漏れる賑やかな明かりが見えたとき、ルネは猫撫で声で主人にねだった。
ドゥ・マゴはフランスを代表する詩人マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーなどがかつて通い詰めたカフェとして、いまなお有名な人気店である。
この五十年でパリ中心部の街並みは大きく様変わりした。それは一八五三年から開始されたセーヌ県知事オスマン男爵によるパリ改造計画によるものであり、その大工事により、狭い道沿いに不衛生な住宅がひしめき合っていたパリの中心は美しく瀟洒な街並みへと姿を変えた。
ふたりの暮らす邸宅からほど近いサン=ジェルマン大通りも、そのときにこざっぱりと整備されたのだとういう。その後、通り沿いに開店したカフェには、パリの芸術家や文学者、カルチエ・ラタン(現在のパリ5区、6区にまたがる学生街)の学生らが深夜まで集い、熱い議論を繰り広げている。
主人は子猫のように腕に絡みつくルネを一瞥し、つれない息を吐いた。
「駄目。明日も学校があるだろう。早く帰って一緒に風呂に入ろう」
「明日は日曜だよ」
「それならゆっくり風呂に浸かれる」
ええーっ、とルネは不満げに声を裏返した。
「やっぱり風呂なんて造らなければよかったんだ」
「何だ、お前は毎日小汚い身なりで過ごしたいのか」
「フランス人でこんなに風呂に入りたがるのはオーギュくらいだよ。ヴァンピールは汗だってかかないのにさ」
「じゃあ人間はもっとヴァンピールを見習うべきだな」
遡ること半年前、主人はたまたま画廊を訪れた英国人から入浴の習慣を聞かされた。
もともと過度の潔癖症の主人である。居ても立ってもいられず、珍しく自分からマリー=アンヌに頭を下げに行った。――英国からいま流行りの猫足浴槽を取り寄せ、屋敷の中に浴室を増設したいのだと。
滅多にない主人からの頼みをマリー=アンヌが断るはずがない。マリー=アンヌは嬉々として主人のため大枚をはたくことを決め、こうしてめでたく屋敷の中庭に上下水道を引き込む大工事が着工されることになったのだ。
数ヶ月に渡る工事の末、一見温室のようなガラス張りの浴室が完成したのは、ひと月ほど前のことである。
フランス人に入浴の習慣はほとんどない。だが主人は、愛人らと夜を過ごした後は特に風呂に入りたがる。贅沢にも自分の肌に女の汗や香水の香りが残るのが嫌なのだという。
(ヴァンピールのくせに潔癖なんて!)
ルネは胸の中で毒づいた。