リンゴと野良猫(4)
仕立ての良いスリーピースのラウンジ・スーツは見たこともない深緑で、頭には濃紺のフェドーラ(中折れ帽を)目深に被っている。すらっと背の高い細身のシルエットは、遠目に見ても年若い印象を受けた。
どう見ても上流貴族の佇まいだが、この界隈で見かけたことは一度もない。
これまで業者を除けば自宅に客人が来るのを見たことのないルネは、不審に思いながら恐る恐る歩みを進めた。
濃紺のフェドーラが上を向く。視線が重なった瞬間、その人物の瞳が初夏の太陽のように輝いた。
「――ルネ! 遅いじゃねーか! どれだけ待たせるつもりだよ!」
その顔に見覚えがあった。一週間ほど前、仮装舞踏会で出会ったアンリ・ド・モンテスキューだ。
真夜中の乱痴気騒ぎ。目が眩むような宝石の山。女たちの紅いくちびる。むせかえるワインと香水の匂い。そして、別れ際のキス――あの夜の光景が脳裏を駆け抜けていく。
あの狂騒の中でさえ、アンリの存在感は灼けつくように強烈だった。だけど真昼の日差しの下にいると、あの夜よりずっと清々しい印象がする。相変わらずの遠慮のない物言いだが、飾らない声音のせいかどうも憎めないのだ。
間近で見れば、奇抜な深緑のスーツにペイズリー柄のクラヴァットを合わせていた。こんな派手な服を着こなせるのは、パリ中を探してもアンリくらいだろう。
「本当に家に来るなんて……」
面食らうルネにアンリは大股で近づき、ルネの髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。ルネは慌ててその手を振り払った。
「お前、あのときとずいぶん雰囲気違うから、一瞬誰だかわからなかったよ! 普段着だと年相応に子どもっぽくて可愛いじゃん」
着る物なんて普段は気にしたことがないのに、改めて指摘されると無性に恥ずかしい。
グレイのズボンに同色のジャケット。庶民なら皆こんなものだ。
「可愛くねぇよ! あんただってそんな服着てるから、いったい誰かと思ったよ」
「あはは。そうか、あの晩はマハラジャの仮装だったからな! 今日はあのときよりずっと地味で平凡だろ」
豪快に笑う口からきれいな歯並びが覗く。
いったいいつからここで待っていたのだろう。これでも相手は名門貴族の御曹司なのだ。訪問した家の前で待ちぼうけを食らうなんて、普段ならありえないはずだ。
「こんなところで待っていないで中に入ればよかったのに。この家の鍵、本宅の方でも持っているんでしょう?」
「呼び鈴は鳴らしたけど、誰も出てこなかったからな。さすがにいまは自分ちじゃないんだから、勝手に中には入れないだろ。お前の『先生』はいま外出中か?」
陽が沈むにはまだ時間がある。主人はおそらく就寝中だ。たとえ起きていたとしても太陽の下に出てくるはずがない。
「……多分、まだ寝てると思う。オーギュは夜型なんだ。日差しを浴びると具合が悪くなるから」
ふうん、とアンリは納得したのかしていないのか、曖昧な返事を返した。
屋敷の正面玄関は相変わらず締め切っており、ルネはそれを開ける鍵を持っていない。客人を使用人の通用口から通すのは心苦しいが、そうするより他になかった。
「……ごめん、悪いけどこっちから」
アンリを手招きし、屋敷脇の通用口を開けた。予想通りアンリは、なぜ玄関を使わないんだとぶつくさ文句を言った。
屋敷の中に入った後も、アンリの反応はこちらの予想そのままだった。――厚い埃を被った厨房。腐った床板。中庭を埋め尽くす雑草。屋敷の荒廃ぶりを目にするたび、いちいち大袈裟な声を出す。ルネは恥ずかしさでどんどん身を縮こませた。
(だから来ない方がよかったんだ)
これまで家の手入れを怠ってきた主人を恨むしかない。アンリの声に、非難よりこの状況を楽しんでいるような気配が滲んでいるのが唯一の救いだった。
「しっかしこの家、いつから手入れしてないんだ? これじゃ幽霊屋敷じゃねーか。大工と掃除夫と、あとうちの庭師、こっちに派遣してやろうか?」
一緒に階段を昇っているとアンリが早速お節介を焼き出した。
「心配しなくても大丈夫! ……オーギュはこういうのが好きなんだよ。俺が掃除しようとしても、このままにしておけって」
「このままにしろって言われても、お前が暮らしにくいだろ、こんなんじゃ」
「いいんだよ! ここはオーギュが借りてるんだしさ。この家の主人はオーギュだし、オーギュの好きにすればいいんだ。別に慣れちゃえば言うほど不便でもないし……」
早くこの話を終わらせたくて、アンリの言葉を適当に受け流した。
階段を上がると、がらんとした埃まみれの大部屋がある。かつては舞踏会も開かれていたという来客用の大ホールだ。玄関ホールのちょうど真上に当たる。
その部屋の隅を、ルネはアンリより先に足早に横切っていった。舞い上がる埃の粒子が窓辺から差し込む光の中できらめいている。
背後から、なあ、とアンリの声が飛んできた。
「お前って『先生』のこと、オーギュって呼んでんの?」
予想もしないことを尋ねられ、思わず胸が引き攣った。
「そ、そうだけど……だから何」
「何ていうか……お前って大人ぶってるけど、『先生』の話になるとちょっと甘えた感じになるんだなぁと――」
「甘えてねえよ! 適当なこと言うな!」
カッと頭に血が上り、振り向きざまにそう怒鳴りつけた。――あぁ、またやってしまった。
「あ、悪い。そんなに怒るなって。別にからかったつもりじゃないんだ」
アンリは笑いながらひらひらと片手を振っている。相変わらずの鷹揚さに、ほっと胸を撫で下ろした。
「親代わりみたいなもんなんだろ? お前、孤児だったって聞いたから。あの先生、一見怖そうに見えるけど、きっと普段は優しいんだろうなと思って。よかったな、いい奴に見つけてもらって」
親代わり――改めてそう言われるとひどく違和感があった。
オーギュを父親だと思ったことなんて一度もない。便宜的に先生と弟子という言葉を使うこともあるが、師弟のような厳格な上下関係があるわけでもなかった。だからと言って自分たちの関係が何かと問われると、上手く説明はできないけれど。
返事を返さぬまま、ルネは渋々自分の部屋のドアを開けた。
知り合って間もない人間を部屋に入れたくはないが、ここ以外客人をもてなせる部屋の準備がないので仕方がない。
部屋に入るなりアンリは後ろ手を組み、美術館にやって来たかのようにぐるりと辺りを見渡した。
クレオ・ド・メロードの絵葉書に目を留めてふっと笑いをこぼし、エッフェル塔のスノードームをひっくり返し陽の光を透かして眺める。
自分の部屋に初めて他人を招いた気恥ずかしさでまったく落ち着かなかった。自由に部屋を探索するアンリの姿を、ルネは借りてきた猫のように部屋の隅から眺めていた。
「この部屋だけはきれいにしてるんだな。明るくて居心地がよさそうだ」
アンリはそう感想を述べ、断りもせずベッドの端に腰を下ろした。そんなところに、と思ったが、他に座ってもらう場所もないので諦めるより他にない。
(こういうときのために、そろそろ来客用の部屋が必要かもしれない。主人が起きたらお願いしてみよう)
そう考えながら、教科書の詰まった鞄をどさっと机の上におろした。アンリはルネの鞄からはみ出した教科書の山に目を留めた。
「ところでお前、どこの学校に通ってるの?」
「ああ……ルイ=ル=グラン(ルイ大王校)だけど」
正直に答えると、アンリは息を呑み込んだあと、はぁ?と声を裏返らせた。
「フランス一の名門校じゃねーか! お前、頭いいんだな! 何となくそんな気はしたけどさ!」
「違うよ! ……家から近いから」
「近いからって誰でも入れる学校じゃないだろ。お前って優秀なんだなぁ。すごいじゃん。感心した」
「別に……すごくないってば」
ルネはもじもじと視線を落とした。
そんなに率直に称賛されると逆にこっちがいたたまれない。そもそも庶民が気軽に話せるような相手ではないのに、親も金もない自分を手放しで褒めるなんて――
これほど身分違いの相手の前で本来どう振る舞うのが正しいのか、ルネにはよくわからなかった。あの晩のことは夢の中の出来事のように実感がないし、いま思えばあんな大胆な振る舞いがよくできたものだと思う。
そのとき、そんなルネの緊張を和らげるように、窓の外からか細い猫の鳴き声がした。目をやると、痩せた黒猫が窓ガラスをかりかりと爪で引っ掻いている。
ルネは机の引き出しから乾いたハムの欠片を取り出した。窓を開け、バルコニーに出ると、猫がルネの足元に擦り寄ってくる。
ルネはしゃがみこみ、手のひらの上にハムを置いた。黒猫は差し出されたハムを夢中で食べはじめた。
アンリもルネの隣にしゃがみこんだ。