リンゴと野良猫(3)
「先日な、うちの学長が文法級(第六年級から第四年級の低学年)の授業の様子を見回りたいっていうんで、ラテン語の授業を俺が案内したんだよ。まさか学長が見学しているとは誰も思わないからさ、真面目にノートを取ってる奴と熱心に船を漕いでる奴が、普段通り半々ってとこだったよ。だけどその中でお前だけが、ノートも取らず、かと言って居眠りするわけでもなく、顎の下で手を組んで、ただじーっと教壇を見てるだろ。それで学長から聞かれたんだよ。『あの子はいつもああなのかね?』って」
(まさか、学長に見られていたなんて――)
ルネは居た堪れない気持ちになり、小さく身を縮めた。
それを見たマクシムは、違う違う、怒ってるわけじゃないんだ、と慌てて釈明した。
「その学長がな、『あの子の見ている世界はきっと私と同じだよ』って言うんだ」
その言葉の意味が掴めず、ルネはぽかんとマクシムを見上げた。
「お前も、うちの学長の伝説的な経歴は知っているだろう? 修辞級(文法級と人文級を終えた第一年級)と哲学級(修辞級の上の最終課程)でコンクール・ジェネラル(数校の名門高等中学校のみが参加できる権威ある選抜試験)の最優秀栄誉賞をもらい、エコール・ノルマル(高等師範学校。エリート養成機関であるグラン=ゼコールのひとつ)にトップの成績で入学、文学アグレガシヨン(高等教育教授資格)を最短で取った、この学校の長い歴史の中でも滅多に現れない天才――いや、フランスの誇る天才中の天才だ。その天才がな、『自分と同じだ』って言ったんだ。この意味がわかるか?」
ルネはごまかすように首を傾げた。
ルネ、とマクシムは窘めるような声を出し、人差し指を自分のこめかみに当てた。
「全部、脳みそに直接書いてるんだろ?」
ルネは、はっと目を見開いた。その表情を見てマクシムは降参したように眉尻を下げた。
「――図星かぁ。いやぁ、天才ってのはいるもんだな。俺だって十分優秀なはずなんだけど、お前みたいのがいると力が抜けるわ。こっちは睡眠時間削って毎晩必死で勉強してるっていうのにさぁ」
「違います! 天才って……いったい何の話ですか? ただ人よりちょっと暗記が得意なだけで、ラテン語はともかく、数学はちょっと苦手だし――」
焦って弁明を繰り出したが、マクシムは表情を変えなかった。
「ラテン語の講義を耳で聞いただけで完璧に理解するのは、暗記がちょっと得意だとは言わないんだよ」
マクシムは短いため息を吐き、手元の解答用紙の束から一枚抜き取った。
「そんなお前に、いまから少し説教するぞ」
指で摘んだ一枚を、マキシムはぱたぱたとはためかせた。それはルネのラテン語作文の解答用紙だった。
「お前、わざと解答を間違えてるな?」
――事実だった。ルネは言い訳もできず、思わず視線を泳がせた。
「前から、妙な間違え方をするなぁと思ってたんだよ。文法はしっかり理解しているのに、簡単な単語の綴りを抜かしたりさぁ。で、学長に言われて見直してみたわけ」
マクシムはその用紙をルネの前に差し出した。紙の端に、マクシムが書き込んだと思われる赤文字の羅列が残されている。
「間違えた綴りの、抜けている文字をここに書き出してみたぞ。E、A、T、E、D、R――で、これを並び替えてみると」
マクシムは、文字の羅列の下に殴り書きした単語を指さした。
――deus aeternus
「不死の神、で正解だろ?」
「――すみません」
ルネは観念し、素直に頭を下げた。まさかこんな悪ふざけに、誰かが気づくと思わなかった。
「このあいだ授業で読んだ、スキーピオーの一文か? お前なぁ、お遊びもいい加減にしろよ。これを解明するのに、こっちは徹夜しちまったじゃねーか。俺を睡眠不足で殺す気かよ」
言われてみれば、普段から顔色の悪いマクシムの目の周りに、追い討ちをかけるような黒い隈ができている。ルネは罪悪感と羞恥心に押しつぶされ、さらに小さく縮こまった。
「いいか、ルネ。これからはわざと間違えたりすんなよ。お前はいい成績を取ってこれ以上目立ちたくないのかもしれないが、俺から言わせればお前のやっていることは、ただの責任の放棄だ。天から与えられた能力は正しく使え。使って磨いて、世のため人のため生かすのが筋ってもんだ。恵まれた者にはそれをやる責任がある。これは俺の持論だけどさ」
「恵まれてるだなんて――」
「恵まれてるだろ」
自虐の混じるルネの声を、マクシムは強く遮った。
「お前は孤児で、十分な教育も職業訓練も受けられず、浮浪者か犯罪者としての人生を送る可能性だってあった。それを運良く拾われて、パリの名門校に通わせてもらい、しかも天才から目をかけてもらうほどの才能があるんだ。親がいなくたって、片目が見えなくたって、お前と立場を交換したがる人間がこの世にはごまんといるぞ。俺だってお前みたいなら、エコール・ノルマルにも一発合格して、エリート街道まっしぐらだったかもしれないのに」
「だから才能なんて、たいそうなものじゃ――」
わかったわかった、じゃあ言い方を変える、とマクシムは降参したように両手を掲げた。その声も表情も打って変わって明るく、その場の空気を塗り替えてしまう。
「お前さ、勉強が好きだろ?」
その質問にルネは言葉を詰まらせた。マキシムは骨張った指で頬杖をつき、本心を窺うようにルネの目を覗き込んだ。
(――好きか嫌いかなんて考えたことなかった。主人に勉強しろと言われたからやっていただけで)
答えに窮していると、マクシムは、やれやれと言わんばかりに肘掛け椅子に沈み込んだ。
「――自覚ないかぁ。でもなぁ、ルネ。あんな目をして授業を聞いているのは、百人学生がいてもお前だけだぞ」
そのとき、午後の授業の開始を告げる鐘が鳴り、ふたりは慌てて椅子から立ち上がった。マクシムは大急ぎでアーモンドをもう一粒、口の中に放り込む。
「まっ、そういうわけだわ。学長も俺もお前に期待してるんだからさぁ、手抜きせずに頑張ってくれよ」
そう言いながらマクシムは、山積みの本のあいだから器用に教科書を引っ張り出した。だがルネは、弱々しい愛想笑いを顔に浮かべた。
「……きっとご期待には添えないと思いますよ。俺は学長とは違います」
そう答えると、伝わらないなぁとマクシムは頭を掻きむしった。鳥の巣のようになった頭を見て、ふっと身体から力が抜けた。
「でも、気にかけていただきありがとうございました。たしかに勉強は思ったより――嫌いじゃない気がします」
(――そうだ、嫌いじゃない。ラテン語も、ギリシャ語も。将来役に立つとは微塵も思わないけれど、皆が嫌うほどにはきっと嫌いじゃない)
ルネは今日の学校での出来事を苦々しく思い出しながら、サン=ジェルマン・デ・プレ教会の角を右に折れた。
閑静な邸宅街を、自宅の方へぷらぷら歩いていく。すると歩道の先、ちょうどルネの自宅の前で、両腕両脚を組み玄関扉に寄りかかる見慣れない人影があるのに気づいた。
ルネは立ち止まり、その人物の姿を遠くから観察した。




