リンゴと野良猫(2)
喉を通ったぬるいスープが逆流し、思い切り咳き込んでしまった。まるで鬼の首でも取ったかのように、サミュエルの丸々とした顔が輝いている。
「どうりで納得したよ! お前みたいな孤児に、モンテスキューが肩入れするはずないもんなあ! しかもモンテスキュー夫人って、だいぶいい歳の婆さんなんだって? お前の養父も金のためとは言え、よくそんな婆さんと寝――」
力任せに、ルネは両掌でテーブルを叩いた。飛び跳ねた食器が鋭い音を立て、一瞬で辺りが静まり返る。
「――お前、いま何て言った」
「な、何って、だからお前の養父がさ――」
ルネの気迫に負けじと、サミュエルも言い返そうとする。が、それ以上言葉は続かなかった。
鋭い針のようなルネの視線がサミュエルを冷徹に貫いていた。
自分のことなら何を言われても構わない。でも、あのふたりを悪く言うことだけは絶対に許せない。
ルネは立ち上がり、上からサミュエルを見下ろした。慌てたレオナルドが、ルネ、向こうに行こう、とルネの服を引っ張るが、ルネは頑として動こうとしない。
「――謝罪しろ」
爆発寸前の緊張が、明るい食堂に波紋のように広がっていく。ふたりのただならぬ様子に気づいた学生たちは、食事を中断し、あちこちから顔を覗かせた。
サミュエルは強張った顔に不自然な笑みを浮かべた。周りに助けを求め落ち着きなく視線を泳がすが、誰も助っ人になど来ない。
冷や汗がサミュエルの丸い額に一筋流れ落ちる。
「……な、何ムキになってんだよ。本当のことだろ」
「不適切だ。謝罪しろ」
狂気すら漂うルネの表情にサミュエルは凍りついた。
その薄い背中から青白い炎がゆらゆらと立ちのぼり、目の前の獲物を食い殺そうとしている――そこにいた誰もがそんな幻覚に襲われた。
もはや声も出せないサミュエルに、ルネは無慈悲に追い討ちをかけた。
「これ以上、俺を、怒らせるな! いま、ここで、謝罪しろ!」
食堂の高い天井に雷鳴のような怒号が響き渡った。その瞬間、
「なぁにやってんだーお前らぁ! ストップうぅう!」
北部訛りの残る気の抜けた制止の声が、張り詰めていた緊張を断ち切った。
慌てふためきながら食堂に飛び込んできたのは、のっぽという言葉がよく似合う背の高い青年だった。
青年の名はマクシムといい、昨年度からこの学校の生徒監督として働いている。生徒監督とは学生の自習の監督をし、寄宿舎に住み込んで寄宿生の世話をする見習い教師のことだ。
マクシムは勢い余ってテーブルの角に足をぶつけて小さく呻き、片足でけんけんしながらふたりを眺めている学生の壁をかき分け、ようやくこちらに辿り着いた。
そして細い枝のような両腕を広げ、一触即発のふたりのあいだに割って入った。
「はいはい、喧嘩はおしまい! 食堂は飯を食うところです!」
だがルネは、獲物に喰いかかる寸前の獣のようにサミュエルから視線を離さない。
「ルネ、何言われたのか知らないけど、もう勘弁してやりなさい。乱暴者のサミュエルくんが涙目になっちゃってるでしょうが」
マクシムは、しっしと野次馬の学生らを追い払い、ルネの正気を呼び戻すかのように肩を軽く叩いた。ルネはようやくサミュエルから視線を逸らし、むっつりとマクシムを見上げた。
マクシムはルネの皿がほぼ空になっているのをちらりと確認すると、ルネの腕を掴んだ。
「よし、だいたい食い終わってるな。ルネ、ちょっとおいで。話があるから」
振り向くと、レオナルドが不安げな顔で自分を見つめている。悪い、またあとで。そう声を掛け、ルネは食堂を後にした。
マクシムの背中を追い、階段を昇る。上の階に上がったマクシムは、周りに学生がいなくなったのを確認すると、途端に情けない声を出した。
「あーあ。お前らがすぐ問題を起こすから昼飯を食う時間もねえじゃねーか。勘弁してくれよぉ。これ以上痩せたらどうしてくれるんだよぉ」
「……すみません」
ルネは膨れっ面のまま、ぼそりと謝った。
「でも、手を出さなかったことだけは褒めてやるよ。入学当初は、何かあればすぐに取っ組み合いの喧嘩だったもんなぁ。だいぶおとなしくなったもんだ」
マクシムは、そばかすの多い鷲鼻に皺を寄せて笑った。
生徒監督の仕事は過酷だ。悪童だらけの寄宿生に四六時中目を光らせながら、日々学生らの宿題に目を通し、ときに悩み相談に乗り、喧嘩の仲裁に入り、授業の準備をし、その合間にリサンス(学士資格)を取るための勉強もしなくてはならない。給料も驚くほど安く、睡眠時間も休憩時間もろくに取れない。疲労と鬱憤は解消されぬまま蓄積し続け、じわじわと健全な精神を蝕む。
この劣悪な環境ゆえ、生徒監督というものは常に機嫌が悪く、高圧的な態度と体罰によって学生らを統率しようとすることが多い。だが唯一、マクシムだけは違った。
マクシムはノルマンディーの田舎出身の二十二歳。すでにパリ生活も長いだろうが、いまだにのんびりとした純朴さを残している。滅多なことでは怒らず、どんな学生に対しても平等に気さくに接するので、学生たちから絶大な信頼と人気があった。
ルネも入学以来、何度マクシムに助けられたかわからない。他の学生とのトラブルが多すぎると教師のあいだから不満が出たときも、マクシムだけはルネを庇ってくれた。それゆえルネもこの学校で唯一、マクシムだけには心を許している。
マクシムは生徒監督室にルネを通した。部屋の真ん中を陣取った年代物の大きな机には、分厚いラテン語の辞書と学術書、古典のテキストと様々な書類とが、いまにも崩れ落ちそうなバランスで山積みになっている。
マクシムは部屋の隅で物置となっていた椅子の上の書類をどかし、ルネに座れと指示した。ルネが腰を下ろすと、マクシムも机の向こうの肘掛け椅子に腰を下ろし、すっかり冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「で、今日はどうしたんだ。お前があんな怒り方をするのは珍しいな」
ルネは早速無言の抵抗に出た。マクシムを困らせたくはないが、さっきのサミュエルの台詞を自分の口に出すことも、思い返すことさえ不快だった。
「まあ……言いたくないなら無理にとは言わないが。サミュエルにも困ったもんだよ、どうにもこうにも粘着質でなぁ。あいつがしつこくお前に嫌がらせする理由、わかってるか? あいつ、本心ではお前に憧れてんだよ。でもぼんぼんのプライドがそれを許さないんだな。潔く好きを認めて、仲良くすりゃいいのにさぁ」
その言葉を聞いて、ルネは不愉快極まりないとばかりに顔を歪めた。
「気色悪い。冗談でもやめてください。吐き気がする」
「おいおい、ずいぶん手厳しいな。サミュエルが聞いたら泣くぞ」
怖い怖い、と肩をすくめ、マクシムは机の端に転がっていたアーモンドを口の中に放り込んだ。そして背もたれに寄りかかり、試験の解答用紙の束を手に取ると、ぱらぱらと捲りはじめる。
わざわざ部屋に呼んだ割には、ルネの友人関係を問い質したり、説教をはじめるような気配もない。どうやらマクシムの「話」というのは、サミュエルの件ではないようだった。
「……先生。あの、話って何ですか」
不審に思ったルネは、自ら話の核心に切り込んだ。
マクシムは解答用紙の束からちらりと顔を上げ、そして思いがけないことを聞いた。
「ルネ。お前、授業中にノートを取らないだろう?」
「えっ? ……ああ、そうですね」
唐突な指摘に面食らい、ルネは適当に相槌を打った。
「最初はさぁ、目を開けたまま寝てるのかなって思ったんだよ。でも成績は常に上の下だろ。だからまぁ、注意することもないかと思ってさ。妙だなとは思ったけど――」
「あの……やっぱり、ノートを取らないとまずいですか? ……聞きながら書き取りするの、あまり得意じゃなくて。サミュエルたちにノートを破られたこともあったし、だから――」
言い訳を繰り出すルネの前に、マクシムは身を乗り出した。
「違うだろう?」
身体の芯がかっと熱くなった。羞恥か罪悪感かわからない。だが自分の嘘を見透かされ、マクシムを裏切ってしまったような気持ちになる。
マクシムはいたって真面目な顔で話を続けた。




