リンゴと野良猫(1)
午後三時過ぎ、ルネはサン=ジェルマン大通りの街路樹の下を歩いていた。
教科書の詰まった重い鞄を背負い、熟れたリンゴを齧りながら、先日授業で読んだキケローの『スキーピオーの夢』の一節を口ずさむ。
「――et ut mundum ex quadam parte mortalem ipse deus aeternus(そして、ある部分において死すべきものである宇宙を、不死なる神自らがそうするように)」
どこかのレストランから流れ出た、煮込み途中のスープの匂いが鼻先をかすめる。
「sic fragile corpus animus sempiternus movet(そのように、儚き身体を不滅の魂が動かすのである)」
――deus aeternus(不死なる神)
呪文のように繰り返すと、ふっと足元が宙に浮くような心地がした。
脳内を塗りつぶしていく漆黒の宇宙。不死なる神――その透明な腕が伸び、ルネの四肢を柔らかに包み込んだ。
たちまち緩んでいく、身体の輪郭。結合を解く、血と肉と骨。空間に霧散していく、無限の粒子。肉体を失った魂に、幾億の星々が透けた。
薄れゆく自我意識。原初の海に漂う、自己の残骸。
最後の一滴。広がる波紋。果てのない円環――――消失。
茫々たる、暗黒の凪。
そのとき突然、誰かの怒鳴り声が悠久の静寂を切り裂いた。ルネの魂はパリの並木道に引き戻され、驚きに身を強張らせた。
「ぼーっとすんな、小僧! 轢き殺しちまうぞ!」
鼻先すれすれを、二頭立て馬車が黒い激流のように通り過ぎていく。ルネは足早に道路を横切り、握りしめたまま忘れていたリンゴの芯を道端に捨てた。
すると漆黒の揺り籠と入れ替わりに、数時間前に起こった最悪の出来事が脳裏に蘇ってくる。ルネは不快げに眉をひそめた。
事件は、昼休みの学生食堂で起こった。
午前の授業が終わると学生は広々とした食堂へと移動し、それぞれに給食を取る。
内容は毎日たいして代わり映えしない。固いパンと野菜を煮込んだスープ、ソーセージと山羊のチーズ。金持ちの家の奴は不味いやら足りないやらと文句を言うが、孤児院時代の食事と比べれば贅沢すぎるほどだ。
ルネは給食を乗せたトレイを手に、長机の端に腰を下ろした。南向きの大きな窓から真昼の明るい日差しが燦々と差し込んでいた。
「ルネ、隣いい?」
振り向くと、小麦色の肌と黒い髪をした小柄な少年が、人懐こい笑みを浮かべている。
――レオナルドだ。イタリア生まれで、ひとつ年下の十三歳。
父親はヴェネチアン・グラスの職人で、母親がフランス人だという。地元では名の知れた秀才で、給費生として学期の途中から同じ学年に転入してきた。だが職人身分のイタリア人であるせいで、ルネほどではないもののクラスの中では浮いていた。
ルネは頷き、少し横に移動した。ありがとう、とレオナルドは礼を言い、隣に腰を下ろした。
「――隣に座るのは構わないんだけどさ、俺といると巻き込まれるよ、いろいろ」
ルネはパンを頬張りながら、平然とレオナルドに忠告した。レオナルドは、ははっと軽い笑い声を上げ、ネズミのようにチーズの端を齧った。
「ひとりでいるより巻き込まれた方が楽しいよ。休み時間くらい、喋る相手が欲しいだろ? よかったら僕のことは、レオって呼んで」
(――いい奴そうだな)
下がり気味の黒い眉毛を横目で見ながら、そう胸の中で思った。だからこそ少し、申し訳ない。
昨年、ルネはリセ(高等中学校)の初学年である第六年級に途中入学し、現在は第五年級に在籍している。通常、早ければ十歳で第六年級に入学するから、同級生は年下ばかりだ。
だが裕福な家の子息は皆体格がよくその態度も同様なので、本来ならルネはとりわけ目立つ存在ではない。
そうであるのにルネが悪目立ちするのは、孤児であるくせにフランス屈指の名門貴族モンテスキュー家という後ろ盾があるからだ。特に、裕福ではあるものの家柄のともなわない新興ブルジョワの子息らの嫉妬と鬱憤は、当の貴族階級の子息らに向けられない分、社会的弱者であるルネに集中した。
誹謗中傷と仲間外れはすでに日常の光景となり、気を抜けば教科書を破られる、背後から足で蹴られる、給食のトレイは何度ひっくり返されたかわからない。通学用に買ってもらった自転車は三日で壊されたから、いまは諦めて徒歩で通っている。中庭を歩いているときに、二階から泥水をかけられたこともあった。
それでもルネは決してその理不尽に屈することはなかったし、ときに暴力には暴力を持って対抗した。孤児院時代に受けた大人たちからの絶対的な支配に比べれば、現在の敵はしょせん自分と同じ子どもだった。
「ルネは強いんだね。僕はさ、ことあるごとにイタリアに帰りたくなる。早く夏休みが来てほしいよ」
ここに在籍する学生の九割は寄宿生だ。レオナルドももちろん寄宿生であり、一方のルネはクラスの中でも珍しい通学生だった。
オーギュストがルネをリセに通わせると決めたとき、ルネは入学自体は受け入れるものの、寄宿にだけは断固反対をした。孤児のルネが貴族やブルジョワ出身者ばかりの寄宿舎で共同生活を送ることの過酷さは、誰にでも容易に想像できる。
主人は寄宿に関しては譲歩し、ルネを通学生としてこの学校に入学させた。
「ヴェネチアってどんなところ? 飯は美味い?」
そう尋ねると、レオナルドの顔が太陽のように輝いた。
「すっごくいいところだよ! 僕の家は小さな離島にあるんだけど、海と太陽がいつもそばにあって、飯もすっごく美味いよ。魚や貝なんてこことは比べ物にならないほど! ねえ、いつか遊びにおいでよ。うちの家族がかなりやかましいけどさ」
「海、かあ……」
パリ育ちのルネはいままで一度も海を見たことがない。海は青くて広い、そう話には聞くけれど、具体的な光景が浮かぶわけでもなかった。
「じゃあ、いつか遊びに――」
そう言いかけたとき、ふたりのテーブルの前に立ちはだかる人影があった。
――肉付きが良く、赤みの強い巻毛の少年。
嫌な予感は的中した。それはルネが最も嫌う人物、サミュエルだった。
「貧乏人がふたり、遊びの約束ですか。いいねえ、俺も混ぜてくれないかなぁ」
サミュエルはふたりの目の前に、どすりと腰を下ろした。サミュエルはパリで一二を争う絹織物工場の工場長の息子であり、ルネいびりの主犯である。
「向こうで食えよ。お前の顔を見ると飯が不味くなる」
ルネは視線を逸らし、そっけなく言い放った。早速巻き込まれたレオナルドは、おろおろとふたりの顔色を窺っている。
「どうせ不味いだろ、こんな飯。あれ、それとも貧乏人にはご馳走でしたか?」
サミュエルはソーセージにぐさりとフォークを突き立て、一口で頬張った。
口をもぐもぐと動かすサミュエルの目に、何かを企むような気配が見える。ソーセージをごくりと呑み込むと、サミュエルは一段と声を張った。
「俺さぁ、風の噂で面白いこと聞いちゃったんだよね。根も葉もない噂だったら申し訳ないから、一応本人に確認してもいいかなあ」
その不必要な声の大きさは、わざと周りの学生たちにも聞かせようという魂胆だろう。ふたりのあいだに生じた数多くのトラブルを熟知している周りの学生らは、すっと声をひそめ、素知らぬ顔で耳をそばだてている。
ルネはちらりと視線を上げ、また手元の皿に戻した。スープの椀を持ち上げ、ぐいと残りを飲み干す。
その瞬間、サミュエルの面白がるような声が耳に届いた。
「お前の養父ってさ、モンテスキュー夫人の愛人なんだって?」




