仮装舞踏会(6)
「――それは、いったいどういうわけだ。お前はマハラジャか」
ルネは中指に嵌めたピジョン・ブラッドの指輪を堂々と主人に見せつけた。
「〈狩り〉が成功したよ、オーギュ! ぜんぶ今夜の戦利品だ。初仕事にしては上出来だろ?」
「まったく、お前というやつは……」
主人は得意げなルネを見下ろし、呆れ笑いを漏らした。だが紅潮したルネの頬に気づくと、心配そうに指の甲を当てた。
「だいぶ酔っているな? 無理に飲まされたのか?」
「そんなことないよ。ちょっと運動したから」
「運動?」
すると背後から走ってきたアンリが勢いのままルネに抱きついた。
「どうも、先生。先生がいないあいだ、ルネとたっぷり愉しませてもらいましたよ」
アンリはルネの肩に片腕を絡め、にやりと主人に笑いかける。
いったい何のつもりか、わざと含みを持たせた言い方をする。主人は蒼白い顔に作り笑いを貼りつけた。
「これはこれは、モンテスキューのお坊ちゃま。うちの弟子に良くしていただいたようで、私からもお礼申し上げます」
慇懃な主人の挨拶を受け流し、アンリはルネの顔を覗き込んだ。
「なぁルネ。俺たちの相性、抜群だったよな? 先生にも見せてやりたかったよ。そうそう、今度お宅にお邪魔する約束をしたんだけど、構わないでしょう?」
どうやらアンリは本気で家に来るつもりらしい。助けを求めるように見上げると、主人の薄いくちびるの端にそらぞらしい笑みが浮かんだ。
「ええ、どうぞご自由に。私は奥様からお借りしているだけですから、お坊ちゃまがいつ来られようと問題はありません。――ただし毒蜘蛛と蝙蝠が大勢おりますけれど」
そんな遠回しな言葉の裏がアンリに伝わるわけがない。それは素晴らしいもてなしだな、とアンリは軽く笑い飛ばした。
「じゃあな、ルネ! また近いうちに!」
自分の肩から腕を離したアンリに、ルネも別れを告げようとした。だがその瞬間――
アンリのくちびるが自分のくちびるに乱暴に押しつけられた。
不意打ちを食らい呆然としているうちに、アンリは客の輪の中に舞い戻っていく。
「あいつ……結局キスしやがった!」
憤慨しながら口許を拭うルネを見て、主人は苦々しく目を細めた。
「ずいぶんと気に入られたようで何よりだ」
ルネは主人とともに玄関へ足を向けた。するとそれに気づいた〈チーム・オーギュスト〉の面々が、会場のあちこちでひらひらと手を振った。
ルネが大きく両手を振り返すと、夫人たちは紅いくちびるをすぼめ、投げキッスを飛ばしてくる。
「また一緒に遊びましょうね、王子様!」
「たっぷりと愛を用意してお待ちしているわ!」
「オーギュストに飽きたら、いつでも私の家にいらっしゃいな!」
そのすっかり打ち解けたような様子を見て、主人は目を丸くした。
「あちら様にもずいぶんと可愛がってもらったようだな」
「逆だよ。俺が可愛がってやったんだ」
得意げに言い返すルネに、主人は爽やかな笑い声を上げた。
「さすがは私の弟子だ」
螺旋階段を降り、夜の庭に出た。その途端、長い夢から醒めたように喧騒と熱気が遠ざかった。
主人は玄関前に待機している馬車の列へ真っ直ぐに歩いていく。その主人の外套を慌てて掴んで引き留めた。
振り返った主人の胸にぎゅっとしがみつく。
「……ねえ。もう少しだけ」
なぜか無性に、まだ帰りたくないと思った。このおかしな春の夢の中で、もう少しだけ遊んでいたい。
主人はルネの肩を抱き、建物の影へ隠れた。
「どこに行きたい? 王子様」
暗闇の中から、いつもより優しい声が降ってくる。ルネは精一杯背伸びをし、主人に耳打ちした。
「――この街の、一番高いところに」
悪巧みをする少年のように、主人の瞳がきらりと輝く。つぎの瞬間、漆黒の中に身体が浮いた。
足の裏が着地した感触を確かめ、外套の隙間から顔を出した。
どうやらオペラ座の緑青の円屋根の上だ。眼下に広がる夜の街は、まだ賑わいを見せている。
ふたたび外套が閉じる。
つぎに開くと、マドレーヌ寺院の屋根の上。再度、暗転。
コンコルド広場のオベリスクの先端を踏みしめ、空高く飛び上がる。瞬く間に、パリ万博の展覧会場、グラン・パレのガラス張りの屋根の上に辿り着く。
そこからセーヌ河左岸へ。
アレクサンドル三世橋のたもとに光る、金のペーガソス像。それを爪先で蹴り、アンヴァリッド(廃兵院)を目指す。その中央、ナポレオンの眠る礼拝堂の黄金のドーム屋根でひと息つくと、目の前にエッフェル塔の全景が姿を現した。
塔の足元に広がるシャン・ド・マルスの暗がりを、一瞬のうちに抜ける。
そしてふたりは、この街で一番高い場所に足を下ろした。それはエッフェル塔の最上階のさらに上、頂上のアーク塔の屋根の上だった。
主人は右腕でルネの肩を抱き、左手で塔の上に立つトリコロール(三色旗)の竿を掴んだ。
吹き上げる春の夜風がオペラ・ケープを丸く膨らませ、ルネにパリの夜空を披露する。
薄いヴェールを纏った月と、瞬く満天の星がふたりの頭上を覆っていた。その遥か下に、星空を地上に映したようなパリの街並みが広がっている。
さっき聴いたベルガマスクが、酔いの回った耳の奥に響いていた。星々が瞬き、弾け、こぼれ落ちるような音が――
瞼を閉じ、頭に思い描いてみる。
夜の海を。その波間を泳いでいる。深く、柔らかな、漆黒の中を。
すると突然、足元がすっぽ抜けた。
沈没する。暗い夜の底へ、真っ逆さまに――
慌てて主人の胸にしがみついた。
ほっと息を吐き見上げると、主人の蒼い瞳が穏やかにルネを見下ろしていた。
「オーギュ! パリの夜は、俺たちヴァンピールのものだ!」
パリの夜空にそう叫んだ。その声は夜風にさらわれ、闇の波間に溶けて消える。
「そうだな、私たちのものだ」
ルネにつられたのか、主人が機嫌のよい声を出す。その声が、重力のおかしくなった耳の中で浮遊した。
「俺、オーギュと出会えてよかった。あの夜、俺を見つけ出してくれてありがとう」
ルネは主人の胸に自分の鼻先を押しつけた。
「――Lunam amo quam solem(私は太陽より、月を愛す)」
誓いのように呟いたあと、はたと気づいた。そう言えば確かめたことはなかったが、主人はラテン語がわかるのだろうか。
恥ずかしくなって、ちらりと主人の顔を盗み見た。蒼白の輪郭がかすかに歪み、濡れた睫毛の縁に月明かりが宿っている。
「……泣いてるの?」
尋ねると、主人は何も言わずルネを見下ろした。ふたつの蒼い瞳が、暗い宇宙を漂う星のように見えた。
主人は無言のまま首を振り、ルネの金の髪に顔を埋めた。いまにも頭の上から、主人の啜り泣きが聞こえてくるような気がした。
離れないで。離れていかないで、オーギュ。
だけどそう言えば言うほど、自分から離れていくような気がするのはなぜなのだろうか。
ルネは顔を上げ、その冷たい頬を両手に包んだ。爪先立ちになり、くちびるにくちびるを重ね、離す。
触れ合った冷たさが、傷痕のようにくちびるに残った。
「……さっきから女の香水がぷんぷん匂うよ。たぶんヘリオトロープの匂いだ」
気恥ずかしさをごまかしたくて文句を言った。主人もぱっと顔を離し、黒い眉をわざとらしく眉間に寄せた。
「お前はさっきから汗臭い」
顔を見合わせ、ふたりは笑った。
「早く家に帰って風呂に入ろうぜ、オーギュ」
その瞬間、パリの夜空が漆黒の外套の向こうに消えた。
第一章 華の都の紅い夜 完