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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第一章 華の都の紅い夜
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仮装舞踏会(5)

 逃げようとするルネの腕を掴み、アンリが強引にくちびるを奪おうとする。その執拗な攻撃を必死にかわし続けた。

 ふたりの滑稽なやりとりに、夫人たちは腹を抱えて笑っている。

「おいおい、ずいぶんと我儘な王子様だなぁ! 夫人たちの愛を受け取っておいて、俺の愛は受け取れないって言うのかよ! お前、俺の愛がどれほどのものかわかってないだろ!」

「どれほどって……」

 思わずたじろぐと、夫人たちはルネの左胸をまじまじと覗き込んだ。ターバン飾りの中央には、ひときわ眩い光を放つ真紅の宝石が嵌められている。

 夫人たちは、はっと大きく息を呑んだ。

「……いやだこれ、去年のオークションで話題になっていたやつじゃないの」

「そうよ。たしかこの大きさのファンシーレッド・ダイヤモンドはめったに市場に出ないって」

「このダイヤ、私も狙っていたのに、モンテスキュー伯爵には負けっぱなしなのよね」

「アンリ、あなた大丈夫なの? 勝手にプレゼントなんてしたらお父様に大目玉喰らうんじゃない?」

「親父が俺にくれたんだし、俺のものをどうしようと俺の自由だろ」

 どうやらさっきの宝石とは桁違いの代物らしい。アンリと夫人たちの会話を聞いて、一気に血の気が引いていく。

「ねぇ、これってそんなにすごいの……?」

 すると、ジョゼフィーヌがあっけらかんとこう言った。

「そうねえ。パリの一等地が楽に買えちゃうでしょうね。郊外ならお城も手に入るかしら」

 思わず気が遠くなった。金持ちのお遊びには付き合いきれない。

「城だって……!? そんなもの受け取れない! すぐに返すから!」

 慌ててターバン飾りを取り外そうとすると、アンリに手首を掴まれた。くっきりとしたその眉が不快そうに歪んでいる。

「馬鹿かお前は。一度やったものを返すなんて俺に失礼だろ」

「だ、だけど、こんなに高価な宝石は……」

 上流貴族の常識なんて孤児の自分にわかるはずがない。困り果ててつい泣きそうになると、アンリはぱっと立ち上がった。

「クロード! ギャロップだ!」

 その呼び声に、ベルガマスクを弾いていた男が振り返った。ドビュッシーだ。

 すると気難し屋の天才は黒い髭の中でぶつぶつ呟き、突然曲調を変えた。

 ――仔馬が駆けるような軽快なリズム。その明るい音色につられ、座って話し込んでいた客たちがつぎつぎに席を立ちはじめる。

 ルネもアンリに腕を掴まれ、ソファから引っぱり上げられた。

「ルネ、とりあえず俺の相手を務めろ! 宝石のことは後回しだ」

「え? 嘘だろ? 俺、踊れないよ!」

「心配すんな! ばっちり俺がリードしてやるから」

 アンリは自信満々な顔で、空間の開けた方へルネを引っ張っていく。

「アンリ! 今日のお相手はずいぶんと可愛いわね!」

「そちらの()()()と踊ったら、あとで私とも踊ってちょうだいね!」

 ふたりをからかう婦人たちのあいだをすり抜け、ルネは舞踏場のど真ん中へと連れて行かれた。

「ま、待って! だから俺、踊れないってば!」

「教えてやるって。安心してついてこいよ、プランセス(お姫様)」

 そう言ってアンリはルネの右手を取った。もう片方の手はルネの腰に回し、ぐっと自分に引き寄せる。

 ちらりと見上げると、頭ひとつ背の高いアンリの顔がすぐそばにあった。

「そっちの手は俺の腕の上に添えてみて。そう、それでいい。真っ直ぐ立って力を抜いて。緊張し過ぎだな、いちど深呼吸してみろ」

 アンリは硬直したルネの体をほぐすように、上下に腕を揺さぶった。

「そう、リラックスしてピアノの音をよく聞いて。ステップは単純だから」

 さっきとは人が変わったような紳士的な態度を取られ、つい素直に従ってしまった。

「よしそろそろ行くぞ! あっちに向かって三歩シャッセ。アン、ドゥ、トロワで方向転換だ!」

「はっ? シャッセ?」

「お前は音に合わせてぴょんぴょん跳ねていればいいから。あとは俺に任せておけ!」

(跳ねていろって言われても――!)

 ルネが戸惑っているうちに、アンリはルネを両腕に抱え、突然ホールを走り出した。

「1、2、3! 1、2、3!」

 アンリの掛け声に合わせ、訳もわからず疾走する。周りの景色が激流に押し流され、世界の色が入り混じった。

 艶めく真紅の壁。輝くシャンデリア。むせかえる香水の匂い。その狭間に一筋の夜風。

 跳ねるピアノの音。弾ける笑い声。人々の紅潮した顔、顔、顔――

 ぐるぐると視界が回転し、さっき飲んだワインが身体の中で沸騰する。

「そうだ! お前、なかなか筋がいいな! 背筋を伸ばしてみろ。そう、完璧だ!」

 すっきりと白い歯並びがアンリの口許から覗いた。

(――変な奴)

 知らぬ間に、自分が笑顔になっていたことにそのとき気づいた。

 フランス一の大貴族、モンテスキュー家の御曹司。

 孤児院育ちの自分とは、天と地ほども身分が違う。歳が近くても仲良くなれるわけがない。さっきまでそう思っていたのに――

 貴族にはお決まりの取り澄ました慇懃さも、凝り固まった高慢さも、ひけらかすような不健康さも、この青年には無縁だった。その迷いのない自信は名門貴族の生まれだからこそだろうが、嫌味な感じがしないのが不思議だった。

 初夏の太陽みたいだと、ふと思った。その輝きに惹きつけられて、彼を中心に世界が回っている。

(今夜はすべてがはちゃめちゃだ。真面目に考える方が馬鹿らしい!)

 火照った肌が風を切る。呼吸が重なり加速する。

 アンリはフロアの中央で立ち止まり、ルネを抱えて大きくスピンした。

 重力を失い、宙に浮く意識。眩暈と陶酔。回転する世界――

 丸一曲を全力で踊り切ったふたりは、舞踏場の隅によろよろと倒れ込んだ。

 全身が爆発寸前の熱の塊みたいになっていた。こんなに人の多い部屋の中では空気が足りない。

 激しい息を整えながら、隣に座ったアンリに目をやった。アンリは胸元をくつろげて、ぱたぱたと風を送っている。

「……ちょっとは手加減してよ。ダンスなんて生まれて初めてなのに」

「お前が勝手に暴走するからだろ! お姫様はおとなしくリードされてろよ」

 アンリは額の汗を手の甲で拭い、ケラケラと笑った。

 おずおずと歳を尋ねると、十七だと返事が返ってくる。その答えに胸の中で仰天した。

 たったの三歳でこれほど違うものだろうか。

 伸びやかな手足や、堂に入った社交性。王者たるものが持つ貫禄も――

 ひょろひょろとした自分の身体や、孤児であることや、片目であることが、急に情けなく恥ずかしく思えてくる。

「なあ、お前さ。あの画家とフォーブール・サン=ジェルマンの家に住んでるんだろ?」

 アンリの突然の質問に、のぼせた頭からすっと熱が引いた。ああ、うん、とルネは歯切れの悪い返事を返した。

 アンリはいったいどこまで把握しているのだろう。自分が孤児であることは知っていたのだろうか。

 だがそんなルネの気後れに気づくこともなく、アンリは弾けるような笑顔を見せた。

「今度、遊びに行くな!」

「えっ、でも――」

 家も庭も手入れひとつせず、幽霊屋敷そのものなのだ。とてもじゃないが客を呼べるような状態じゃない。

(しかも、モンテスキュー本家の人間を――!)

 そもそもマリー=アンヌの厚意であの屋敷を自由に使わせてもらってはいるが、現在のモンテスキュー伯爵はそのことをよく思っていないかもしれないのに。

 返答に詰まっていると、遠くから主人がルネを呼んだ。渡りに船とばかりに、ルネはぱっと立ち上がり主人の元へ走っていった。

「そろそろ帰るぞ。〈食事〉も済んだ――が」

 近づいてきたルネを見て、主人は蒼い両目を剥いた。少し留守にしていたあいだに、ルネは金銀財宝に身を包んでいる。


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