仮装舞踏会(3)
そのときだ。
まるで天国から漏れ出したような神秘の響きが、まろやかに会場の喧騒を包みこんだ。ぱらぱらとソファから立ち上がった人々が、その音の出どころを探している。
その視線が、大広間の隅に置かれたグランドピアノに集まりはじめる。
ルネも爪先立ちになり、人垣のあいだから顔を出した。するとピアノの横で、男がふたり床に座り、小型の鉄筋のようなものをばちで叩いているのが見えた。
さっきまでピアノを弾いていた、サティとドビュッシーだった。
「ガムランよ! インドネシアの楽器。去年の万博のときに手に入れたのかしら?」
ルネの隣で、ジョゼフィーヌが首を傾げた。
ガムランの音色に合わせムーラン・ルージュの踊り子たちが踊りはじめ、会場から手拍子が巻き起こった。
「これでベリーダンスを踊るなんて、もうはちゃめちゃね!」
「どこがはちゃめちゃなの?」
「インドネシアっていうのは、インドよりもさらに遠くにある島国の名前よ。だけどベリーダンスはエジプトの発祥。だからはちゃめちゃな組み合わせ」
「そうよ、あれは私の国の踊りだもの」
ふたりのあいだに顔を出したクレオパトラ姿のトゥールーズ伯爵夫人が、不器用に腰をくねらせる。チーム・オーギュストはどっと爆笑した。
「へぇ。ジョゼフィーヌって美人なだけじゃなくて博識なんだね。さすが先生の選んだ女性だ」
ルネが素直に賛辞を送ると、ジョゼフィーヌはパンチ酒のグラスを片手に小鳥のように笑った。
踊り子たちは行列を作り、人混みのあいだを練り歩いていく。露出した腰や胸が別の生き物のように細かく震え、金貨型の飾りがしゃらしゃらと音を立てた。
湧き上がる拍手と喝采。会場を満たす熱気と高揚。
踊り子たちが天女のポーズで動きを止める。その天女の隙間を、一筋の春風のように通り抜けていく薄紅のヴェール――
ヴェールは風に膨らみ、音もなく床に落ちた。
(!!!)
日の出のような黄金の冠。豊かに波打つ長い黒髪。エキゾチックな朱と金のドレス――
パリの夜に舞い降りた異国の女神が、にっこりと観衆に微笑みかけている。
「クレオ・ド・メロード!」
無意識のうちに、その憧れの名がルネの喉から滑り出た。
(――信じられない! 本当に会えるなんて夢みたいだ!)
ルネは興奮を抑えきれず、隣に立つ主人の袖を引っ張った。主人はルネを見下ろすと、これ見よがしに黒い眉をしかめた。
クレオを中心に、踊り子たちが輪を描いて踊り出す。
熱を帯びるガムラン。それに加わる太鼓と鈴の音。フランス一の美女の登場に、一斉に沸き立つ観衆。クレオは可憐な魅力を惜しみなく振りまき、女神のごとく舞を舞う。
すると大広間の入り口付近でまた別の笑いと歓声が上がった。それを合図に踊り子たちが左右に分かれ、花道を作る。
現れたのは何と――象の耳と鼻をつけた、上半身裸の筋骨隆々たる男たち! 岩のように盛り上がったその肩で黄金の輿を支えている。
輿の上には、ひとりの青年が異国の王様のように座っていた。
頭に巻いた白地のターバン。首元にぎっしり巻かれたネックレス。五本の指には極彩色の指輪。金糸銀糸で紋様を描くブロケード(高価な紋織物)のコート――毒々しいほどの宝石の光がその青年にかしずいている。
(――マハラジャ?)
だがおそらく、フランス人のマハラジャだ。
歳の頃は二十歳手前だろうか。豪快に笑う青年の口元から美しい歯並びが覗いている。目鼻立ちのくっきりした顔には愛嬌と気品と才気が同居し、大人になり切る前の若気の放逸が全身から溢れ出していた。
腕に抱えた金の壺に片手を突っ込み引き抜くと、真紅の薔薇の花びらが頭上を舞う。
会場の興奮は最高潮を迎えた。皆が笑い、手を叩き、マハラジャの大行進を迎え入れる。アンリ!と彼を呼ぶ女の声が、あちらこちらから聞こえた。どうやらそれが青年の名前らしい。
ルネは度肝を抜かれたまま、その乱痴気騒ぎをぽかんと見上げていた。すると通り過ぎたはずの青年の視線がぱっとこちらに戻ってくる。
目が合った瞬間、青年はルネに人差し指を突きつけた。
「おい、お前! 何でここに子どもがいるんだよ!」
喧騒を突き抜ける青年の声――
それは非難というより単なる驚きの反応だったかもしれない。だが、名指しされた方はカッと頭に血がのぼり、反射的にこう怒鳴り返していた。
「――うるせえよ! お前だってまだ子どもだろ!」
その瞬間、会場がしんと水を打った。
何かまずいことをしでかしたことは、ルネにでもわかった。ちらりと隣の主人を見上げると、頭痛をこらえるように眉間を指で押さえている。
「え……っと」
頭の中を駆け巡る、謝罪と弁解の言葉――だがそれを口にするまでもなく、青年の高笑いがその場の気まずさを吹き飛ばしてしまっていた。
「お前――面白い奴だな! あとで話をしよう!」
その声が合図となり、何事もなかったような騒々しさが会場に舞い戻った。青年は輿から飛び降り、両腕を広げながら参加者の輪に飛び込んでいった。
「――ごめん。あれ、誰だったの? 俺、何かまずいことしたんだよね?」
ルネが恐る恐る見上げると、主人は呆れ声でこう答えた。
「――アンリ・ド・モンテスキュー。モンテスキュー伯爵の三男坊だ」
「モンテスキューって……あの、マリー=アンヌの?」
「そうだ。フランス国王に仕えた宮廷貴族の流れを汲む、貴族の中でも名門中の名門、フランス屈指の大金持ちの、正真正銘のモンテスキューだ」
くどいほどの説明を聞き、一気に血の気が引いていく。
「アンリはマリー=アンヌの甥の孫に当たる。だが堅物の長男次男とは違って、あれは変わり者の道楽者だ。幸運なことにお前の暴言をお気に召したらしいぞ。歳も近いし仲良くしておくんだな」
そう平然と言ってから、主人はルネに耳打ちした。
「あと、頃合いを見て私は〈食事〉のために席を外すから、お前はひとりで上手くやりなさい。くれぐれも私の言いつけをよく守るように」
しばらくすると、酒に酔った夫人たちがルネをポーカーに誘った。いまパリの貴婦人のあいだで流行っており、ご多分に漏れずチーム・オーギュストも夢中なのだという。
今宵のゲームは、グレフュール侯爵夫人の作ったジョゼフィーヌ・ルールに則って行われる。
参加料はなし。手札の交換は一回。賭け金には宝石入りの指輪を使う。レイズ(賭け金を上げること)は無制限。
尼僧姿のシュリー伯爵夫人は不参加だと言って自分の指から五つの指輪を外し、それをルネに託して早々に席を立った。
ふと気づけば主人の姿もない。どうやら主人はシュリー伯爵夫人と〈食事〉に出かけたようだった。
(――今宵は尼さんとお愉しみというわけか。背徳感で燃えそうだな)
ルネは不埒な想像をしながら、配られた手札を確認した。
ポーカーは得意な方だ。よく主人の相手をするが、近頃は勝率も五分五分にまで上がっている。
ゲームが開始され、ルネは夫人らの癖や表情の変化に注目した。
クレオパトラは見切りが早く、フォールド(勝負から降りること)が多い。エリザベス一世はいいカードを引くとかすかに左眉を上げる。オスマントルコははったり(ブラフ)をよくかまし、無謀な賭けに出たがる。
主人の頑強な鉄仮面に比べれば、わかりやす過ぎて味気ないくらいだ。
だがただひとり、ジョゼフィーヌだけははちゃめちゃだった。
プレイに一貫性がなく、さっぱり思考が読めない。妙なタイミングで手札を大量に捨てるし、そうかと思えば驚くような役を揃えたりする。そのせいでさっき尼僧の指輪を一気にふたつも取られた。
(何とかして取り戻さないと)
思案するルネの前で、ジョゼフーヌがまた手札を四枚捨てた。山札から新しいカードを引くと、機嫌よく鼻歌まで歌い出す。
「うふふ。愛が溢れてるわあ」
いったいどうなっているのか。何かがおかしい。