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漆黒と遊泳  作者: 鹿森千世
第一章 華の都の紅い夜
10/12

仮装舞踏会(1)

 それから、数日が経った日の晩のことだ。身なりのいい仕立て屋の男が屋敷を訪ねてきた。

 突然の訪問者に驚き主人を呼びに行くと、ルネの服を新調するために呼んだのだという。

 仕立て屋はルネを「旦那様ムッシュー」と呼び、身体の隅から隅まで詳細な寸法を取った。その翌日、ほくほく顔で勘定書を持って来た。

「服を作ってくれるのはありがたいんだけど、ずいぶんと高額じゃない?」

 勘定書を覗き込んだルネは、目玉が飛び出るほど仰天した。その紙切れにはこれまで見たことのない桁の数字が並んでいる。

「ルネ、狩りに連れていってやる」

 振り返ると、主人はソファに寝そべり悪戯な笑みを浮かべていた。その言葉の意味を呑み込んだルネの顔がぱっと明るく輝いた。

「仕事を教えてくれるの?!」

「その素質があるか試してみよう」


 それから一週間と間を置かず、仕立て屋は仕上がった服を家まで届けにきた。

 店名の刻印された化粧箱を恐る恐る開けると、そこに品よく収まっていたのは艶めくような漆黒だった。

「――テールコート? これ、貴族の正装だろ?」

「そうだ。狩りの正装だよ」

「こんなに立派な服を着てどこに行くつもりだよ」

「仮装舞踏会だ」

「はっ? 仮装?」

「早速いまから出かけるぞ」

 言われてみれば、主人はすでに夜の装いに着替えている。

「えっ、ずいぶん急だね」

 主人はにやりと口の端を上げ、早く着てみろとルネを急かした。ルネは下着姿になり、主人に手伝ってもらいながら、その一流の仕立て服に袖を通した。

 ウイング・カラーの純白のシャツ。白のウエストコート。漆黒のズボンとテールコート――ネクタイだけは主人と違い、黒のリボン型だった。

 ルネが漆黒のイブニングウェアに身を包み終えると、主人は少し距離をとり、じっくりと眺め回した。

「背筋を伸ばしてみろ」

 ルネは慌ててぴんと胸を張った。昔からの癖で、気を抜くとすぐに猫背になってしまう。

「完璧だ。誰もが見惚れる」

 ルネは壁に掛かった古い鏡におずおずと自分の姿を映した。

 鏡の向こうに現れた黒の輪郭は――ずっと憧れていた主人の姿のミニチュアそのものだった。

(すごい! 本物のヴァンピールみたいだ!)

 ルネの胸が風船のように膨らみ大きく弾む。

「あっ、ねえ、これは何? どこに付けるの?」

 化粧箱の底に、黒い紐のようなものが残っていた。

 黒のスパンコールが縫い付けられた小さな黒い三角布。その両脇に黒の紐が付いている。

「もしかして、娼婦が付けるやつ?」

 ルネはおどけながら胸元に当て、腰をくねらせた。

「馬鹿。そうじゃない」

 主人はそれを引ったくり、ルネの顔を鏡に向かせた。見えない左目の上に三角の部分を当て、頭の後ろで紐の両端を結ぶ。

「――眼帯だ。格好いいだろう」

「何だよこれ。海賊かよ!」

 ルネは気恥ずかしさから声を上げて笑ったが、そう悪い気分ではなかった。

「でもこれ、仮装なの? 仮装ってもっとおかしな格好をするんじゃない?」

「いいんだ。貴族じゃないのに貴族の格好をしているのだから、これは仮装だ。それにこの服はお前を最も引き立てる」

 そう言いながら、主人は胸元から黒い布を取り出した。鏡を覗き込みながら頭に結びつけ、ぱっと振り返る。

 ルネはぱちりと目を見開いた。驚くことに、主人も左目の上に黒の眼帯をしているではないか!

「私は、ルネの仮装だ」

「何だよ、それ! ちゃっかり自分の分も作ったのかよ!」

 自分とお揃いの主人の姿を見て、ルネは腹を抱えて笑った。

 主人は頭にトップ・ハットを乗せ、得意げに鏡の前でポーズを取った。そして眼帯を付けた自分の姿を念入りに確認する。

「悪くないな。いい男がさらに引き立つ」

「オーギュって案外ナルシストだね」

 ルネがからかうと、主人はテールコートの尾をひらりと翻しながら振り向いた。その蒼い両眼が、腕白な少年のように輝いている。

「いざ、出陣だ!」


 自宅の前に待たせていた黒塗りの箱馬車クーペに、ふたりは颯爽と乗り込んだ。

「で、どこに行くの?」

「ショセ=ダンタンだ」

「ショセ=ダンタンだって!? いったい、どこの金持ちの屋敷に行くつもりだよ」

 ショセ=ダンタン(現在のパリ9区)はオペラ座の北東、パリの高台に新興ブルジョワの贅を凝らした大豪邸が立ち並ぶ地域である。貴族や政治家、経済界の大物はもとより、王侯貴族の寵愛を受ける高級娼婦クルティザンヌの館まであるという。

 主人はアメリカ人のような大袈裟な身振り手振りで得意げにこう答えた。

「自由と芸術と金を愛する米国のご婦人だ。パリの芸術を買い漁り、本国の金持ちに売りさばく」

 ショセ=ダンタンには多くの金満家の外国人も住み着いている。大金持ちのアメリカ人やロシア人はもとより、スペインやルーマニアの大公家、各国大使、そして数多くのユダヤ人が――

「オーギュの人脈には敬服するよ。ねえ、もしかして今日……クレオ・ド・メロードも舞踏会に来るかなあ?」

 そう問うと、主人は黒々とした眉の片方を持ち上げた。

「どうだろうな……お前は、そんなにクレオが好きなのか?」

 クレオ・ド・メロードは、元オペラ座のバレエダンサーだ。その美貌から、フランス最高の美女を選ぶコンクールで優勝し、パリで大きな話題になった。

 街角ではクレオの絵葉書が売られ、さらに去年のパリ万博でクレオは「カンボジアの踊り」を披露している。

 年頃の少年らしく、ルネの部屋の壁にも当然のようにクレオの絵葉書が飾ってある。

「だって、すげえ美人だろ。フランス一の美女だぜ。一度本物にお目にかかってみたいよ」

 ルネは瞳を輝かせた。

 ところが主人はその意見に不服なようで、ルネの言葉を無言で受け流している。それに気づきながらも、ルネは一方的に話を続けた。

「クレオって本当にクルティザンヌなのかな? ベルギーの王様がぞっこんなんだろ? いい爺さんのくせに、いくつになっても美人には弱いんだな。芸術家もこぞってクレオの彫像彫ったり絵に描いたり、女神みたいに崇めて大騒ぎだろ。いいよなぁ、俺も一度会ってみたいなあ」

「……もしクレオがクルティザンヌなら、お前も相手してもらいたいのか?」

 まさか!とルネは声を上げ、ケラケラと笑った。

「そんな金、どこにあるんだよ! クルティザンヌなんて庶民には雲の上の存在だろ……えっ、まさかクルティザンヌもオーギュの客にいたりするの?」

 ルネが尋ねると、主人はさらに不快そうに顔をしかめた。

「馬鹿を言うな。彼女たちは私の商売敵だよ」

「商売敵? だって棲み分けはできてるだろ? あっちの客は男なんだから」

 すると主人は不満げに目を細めた。

「いや……女相手に商売する者もいる」

 その答えにルネは愕然とした。

「なんだか社会って複雑だ」

 小難しい顔をするルネを見て、主人は小さく吹き出した。

「複雑なものか。金は美しく魅力的なものへ流れ込む。家も絵も車も、美しいものが強い。男も女も同じだ。クレオに価値があるのはただ美しいからだよ。実に単純明快な論理だ」

 主人は窓枠にもたれ、暗い車室に浮かぶルネの横顔をじっと眺めた。主人の長い指が、ルネの左目にかかったブロンドの前髪を耳にかける。

「お前も決して自分を安売りしてはいけない。何事もはじめが肝心だ。決してへりくだるな。王侯貴族のように優雅に、皇帝のように堂々としていろ。喋りすぎるな。視線を利用しろ。ここぞというときに、魅力的な言葉を使え」

 主人が勉強と口の利き以外で説教をするのは初めてかもしれない。ルネは師匠の言葉を聞き漏らさぬよう、真剣に耳をそばだてた。

「いいか。自分の値打ちを最大限まで引き上げろ。自分で自分の価値を的確に見極め、最高値がついたときに迷わず売れ」

 そして主人は片方の口の端を上げ、不敵に微笑んだ。

「お前は、誰よりも高く売れるぞ」

「それって俺がいままで聞いた中で、一番為になるアドバイスだ!」

 ルネは主人に負けじと不敵な笑みを返した。

 馬車はセーヌ左岸から右岸へ、パリ随一の歓楽街を進む。

 日が暮れてもなお大勢の人で賑わうカフェ、レストラン、高級商店と劇場――そして絢爛たるオペラ座の前を横切った。

 オペラ座の前には贅を凝らしたクーペが列をなしていた。ちょうど観劇を終えたらしい紳士淑女の群れが、オペラ座から夜の街へ流れ出していく。

 絹サテンやダマスクのイヴニングドレス。デコルテを飾る贅沢なレース。裾にきらめくラインストーンの刺繍。頭の上に揺れる大きな羽飾り――それらに彩られたきらびやかな人の流れが、輝くパリの夜にいっそう華を添えていた。

 そしてついに、ふたりを乗せた馬車はオペラ座の北東、ショセ=ダンタンに足を踏み入れた。そこに広がる街の光景に、ルネはほうっと息を漏らした。

 その街はお高くとまったフォーブール・サン=ジェルマンとは、まったく趣を異にしていた。寄せ集めのように、一軒一軒、屋敷の作りがまるで違うのだ。

 蘇る古代ギリシャの列柱。ロワール渓谷を思わせる城館シャトー。エナメル・テラコッタの鮮やかな玄関ファザード。大邸宅の隙間に覗く日本風の庭園。目の眩むような中国趣味シノワズリ建築、立ち並ぶ女人像柱カリアティード――

 胸がすくような富の誇示! 最上級の道楽と狂乱! 狂気に満ちたルートヴィヒ二世の祝宴!

 街が歓声を上げているようだとルネは思った。世界を動かす巨万の富が、いまにも爆発しそうに蠢いている。

 まもなく馬車は、ローマ神殿を思わせる大豪邸の玄関前に横づけされた。

 噴水中央の黄金のフローラ像が、客人に温かな視線を投げかける。正面玄関のファザードには、玄関灯に照らされた〈ガラテイアの勝利〉の浅浮彫。すでに到着した招待客の笑い声が玄関ホールから夜の庭へと流れ出していた。

「お祭り騒ぎだな!」

「そうだ、祭りだ」

 興奮を隠しきれないルネを横目に、主人の瞳が猛禽めいた光を帯びる。

「さあ、〈狩り〉のはじまりだ!」

 

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