吸血鬼と老婦人(1)
一九〇一年、春。パリ市内、マレ地区。
ちりちりと揺れる蝋燭に映し出された室内は、暗い海の底を覗き込んだようだった。
ルネは十四歳の少年であったが、まだ本物の海を見たことがない。海の底などなおさらだ。それなのになぜ海の底のようだと思ったのか、自分でも不思議だった。
寝台にじっと目を凝らせば、生白い生き物が蠢く気配がする。それは一瞬、不気味な深海生物のように見え、痩せた背筋に震えが走った。だがルネの右目がその暗さに慣れるまで、さほど時間はかからなかった。
主人はこちらに背中を向け、膝立ちになり、一定のリズムで腰を打ちつけていた。
冷たいガラス窓にぴたりと右耳を押しつける。途端、甘ったるい女の喘ぎがルネの鼓膜を震わせた。
その夜ルネは、貴族の大邸宅が集まるル・マレ(現在のパリ3区)の中でも特に壮麗なルネサンス様式の屋敷の庭に忍び込んだ。これはグレフュール侯爵の邸宅であり、若き未亡人である侯爵夫人は、主人の愛人のひとりでもあった。
主人はルネに、少しも実学を教えてくれない。だからその技は、自分の目で盗むしかない。
(――まさに弟子の鑑だな)
主人はルネが窓から覗いているとも知らず、侯爵夫人との行為を続けている。それを観察していると、光を失って久しい左目の奥が、じんと痛むような気がした。だがその痛みもすぐに消えた。
自分が受けた行為とこれとは、まったく別物だとルネは思った。
目の前の男の背中は、汗と悪意の肉塊ではなく、蒼白く熱のない大理石の彫像だった。男を受け入れる方の四つん這いも、無気力に身を潜めた少年ではなく、悦楽を愛する豊満な女の身体だった。
それは善く、正しい交わりだと思えた。たとえ片方は未亡人で、もう片方はヴァンピール(ヴァンパイア)であっても。
ルネは目の前の行為が何であるのか、十分過ぎるほどに理解していた。かつて自分はこれと同じようなことを――だがまったく同じではないことを、三日に一度は強要されていたからだ。
遡ること一年前。
ルネはパリ市の東の小さな孤児院にいた。院長は肥え太った初老の男で、幼い頃からルネは院長のお気に入りだった。
緩く巻いたブロンドは絵画から飛び出したクピドに似て、切れ長の灰青の瞳は懐かぬ野良猫のよう。どことなく浮世離れしたその姿に、院長は邪な欲望を抱いた。
その行為がはじまったのは、ルネがわずか十歳のときだった。
皆がすっかり寝静まった深夜、院長はルネの寝台にやって来てルネを叩き起こした。そして決して声を上げぬよう険しい顔で釘を刺し、寝ぼけたままのルネを暗い裏庭へと引っ張っていく。その夜陰でルネは、男の欲望と加虐心の捌け口となった。
それが続いた何度目かの夜。ルネは激しく抵抗し、ついに叫び声を上げようとした。焦った院長は逆上し、ルネを限界まで痛めつけた。
翌朝、裏庭に打ち棄てられていたルネを近所の者が発見し、医者の元へ連れて行った。警察に呼び出された院長は、素知らぬ顔で暴漢の仕業だとうそぶいた。孤児であるルネの訴えは誰の耳にも届かなかった。
全身に暴行を受けたルネは、左目の視力を失っていた。
怪我が回復すると、ルネはふたたび孤児院へ戻された。院長は、まるで何事もなかったかのように凌辱を再開した。
ひとつだけ、以前と変わったことがある。
用を済まると、口止めのための小銭をルネに握らせるようになったのだ。その金でルネはこっそりパンやハムを買い、常に飢えていた仲間と分け合って食べた。
仲間から感謝されるのは嬉しかった。そうしてルネは、その行為に折り合いをつけることを覚えた。
永遠に続くかと思われた、忍耐と沈黙の日々。だがそれは唐突に終わりを告げた。
その夜、ルネの中で残虐を愉しんでいた欲望が、すっと熱と硬さを失った。覆い被さっていた肉の塊が動きを止め、ルネを冷たい地面に押し潰す。
のしかかる重みの下でもがいていると、ふいにその圧迫が消えた。驚いて振り向くと、闇の奥からにゅっと伸びた黒く長い脚が、院長の巨体を脇に蹴り飛ばしていた。
ルネはズボンを引き上げ慌てて立ち上がった。鼻先を撫でた夜風に、かすかな血の匂いが混じる。
目の前に、闇を凝縮したような、背の高い輪郭があった。
背後に蒼白い月を従えたその人は、全身を漆黒で覆い、闇との境界が曖昧だった。夜から抜け出しいまにも夜に溶けるようで、彫刻を思わせる蒼白い顔だけが、もうひとつの月のように闇にぼんやり浮かんでいた。
月影に、ふたつのサファイアの瞳が冴え冴えと光る。
「醜悪だな」
吐き捨てるような、熱のない声が闇夜に響いた。
思わずルネは身を竦めた。何の抵抗も見せず、ただ邪悪に身を任せていた自分を見透かされたように感じたのだ。
だが、そうではないことがすぐにわかった。
深い闇の奥から、石膏色の指が伸び、ルネの金の髪を優しく梳いた。
捨て子なのか、とその人は聞いた。そうだと答えると、一緒に来るか、とふたたび聞く。ルネは頷いた。
そうしてその夜からルネは、ヴァンピールであるオーギュスト・デュランの養い子となった。
腰を揺らす主人の背中が前へと傾いでいく。主人の動きに合わせ、女の喘ぎが速度を増した。
(――もうじきだ)
主人の長い指が、女のブロンドを搔き分ける。そこに覗いた白いうなじに、主人は顔を埋めた。
直後、猫の唸りにも似た甲高い喘ぎが、冷たいガラス窓を通り抜け、夜の庭へかすかに流れ出た。
快楽の頂を通り越したふたりのあいだから、すうっと熱が引いていく。
ぴたりと動きを止めた主人は、同じく動きを止めた女の身体を静かに寝台に下ろし、女の腰からそっと腕を引き抜いた。
うつ伏せに横たわる女の尻は豊かな曲線を描き、柔らかな果実のようだった。主人は一糸纏わぬその身体に、絹のローブをふわりと被せた。
無事食事を終えた主人は、隙のない素早さで、床に脱ぎ捨ててあった服を纏いはじめる。
ウイングカラーの純白のシャツ。黒のズボン。白のウエストコート。裾が燕の尾のように広がる黒のテールコート。足元はヒールの高い黒のパンプス。
その上に漆黒のオペラ・ケープを羽織る。貴族の夜の正装だ。
白の手袋をはめ、ステッキを拾い上げ、長い黒髪に絹のトップ・ハットを乗せると同時に、主人は窓の外に目を向けた。すると月光を宿した金色の頭が、ぴょこんと窓枠の外へ引っ込んだ。
ルネは夜の中庭で身を屈め、息を潜めた。隠れても無駄だということは、最初からわかっているのに。
予想に違わず、ルネ、とすぐそばで主人の声がした。
壁の向こう側にいたはずの主人の脚が、すでに目の前にある。見上げると、主人は白いボウ・タイを整えながら、呆れ顔でルネを見下ろしていた。
頭の上に落ちる、血腥いため息。彫像のようなその顔に、鮮やかな蒼の瞳が冷え冷えと光った。
「覗き見なんて、趣味が悪い。紳士のやることじゃないな」
「紳士なんて目指してない、ヴァンピールになりたいんだ」
ルネは薄いくちびるを尖らせた。
いくら頼んでも主人は自分の仕事をルネに教えない。だから今夜は無断で見学をしに来たのだ。
主人は黒い外套を蝙蝠の羽のように翻し、その中にルネを隠した。