第03話
父親のアドルフが、青ざめた顔でリディアに目を向けた。
「リディア……もう一度だけ聞くぞ。……本当に、あの『氷の侯爵』と呼ばれる男と婚約を……し、したのか?」
応接間の空気が凍りついている。
正確にはまだ仮契約の段階だが、王都でも名を轟かせるあのセレノ・ヴィスケ侯爵との『結婚』という二文字は、家族に十分な衝撃を与えていた。
父の言葉に対し、リディアは何とか気づかれないように、笑顔で返事を返した。
「はい……今日、広場で偶然出会い、その場で婚約の申し出を受けました」
リディアは頷きながらそのように答え、そっと父の前に封筒を差し出した。
侯爵家の紋章が浮き彫りになっている。中には、セレノ・ヴィスケの直筆の署名――確かな証拠がそこにあった。
「ひ、広場で出会って、その場で!? プロポーズって、あの『氷の侯爵』と呼ばれている男性が!?何かの冗談じゃなくて!?」
母であるマルグリットは椅子から立ち上がり、額に手を当てて絶叫する。
「え、ちょっと待って!? 何その劇的展開!? いや、ドラマ!? 夢!? 姉さま、夢でも見てるの!?」
妹のセシリアは大はしゃぎでテーブルをバンバン叩いている。
すごく楽しそうな顔をしているので、リディアは安心してしまった。
「……本当に、リディアが……?」
「はい」
「……」
父の低く漏らした声が、なぜか一番じわじわくる。
リディアは一度深呼吸して、もう一度言葉を発する。
「今はまだ仮の契約ではありますが、侯爵は誠意を持って申し出てくださいました。条件も合意済みです。『浮気は絶対にしない』と、契約書に明記されています」
その一言で、マルグリットの動きがピタリと止まる。
「……えっ、なにその神条項。完璧すぎでは?」
「姉さま、もしかして、私より先に『逆転人生』ルート突入してる?」
「ぎゃくてんじんせいるーと?」
「セシリア、うるさいわよ!そしてまたわけのわからない言葉を使わない!……本当に、リディアが、よりによってあの氷の侯爵と……」
「なにその『よりによって』!? 褒めて!ねぇ、もっと姉さま褒めていいところ!!」
両親がここまでそのような顔をするのは仕方がない。
何せ、相手はあの有名な『氷の侯爵』なのだから。
『氷の侯爵』――セレノ・ヴィスケ侯爵
その名の通り、彼は氷の魔術を中心に魔物を討伐する程の実力の持ち主。
美しい顔、綺麗な銀髪色の髪の毛は、まさに神から生まれたと言われるほどの存在だと言われている。
感情を表に出すことがなく、まるで氷の彫像のようだと噂されていた。
そうして、いつしか『氷の侯爵』と呼ばれるようになった。
ついでに、私生活は謎に包まれている。
父親のアドルフが咳払いして静かに言葉を挟んだ。
「……いずれにせよ、相手がヴィスケ侯爵となれば、断ることなど不可能だ。うちのような中規模の家にとっては、縁を持つだけで十分な名誉。だが――」
「……だが?」
リディアが問い返すと、父の目が厳しくなる。
「彼の冷酷さは、実際に知られている。浮気しないなど、たやすい口約束とは違う意味を持つだろう……本当に、その契約を守れる相手なのか、私は不安を拭えない」
「えっ、お父様、もしかして姉さまが男に騙されてるかもしれない『疑惑』抱いてます? うわー、過保護出たー」
「セシリア、お黙りなさい」
フフっと笑いながら言ってくるセシリアに、母がバシンと扇子でセシリアの頭を叩く音が響く。
しかし、リディアは微笑んで答えた。
「心配は……もちろん、あります。でも、あの方は誠実で、必要のない感情を持ち込まない方だと……私は、そう感じました」
リディアが言うと、アドルフはわずかに眉を動かし、娘の表情をじっと見つめた。
「……誠実で、感情を交えない、か……なるほどな」
ぽつりとこぼしたその声には、わずかな安堵がにじんでいた。
「氷のように冷たい男かと思っていたが、そういう者こそ、ひとたび交わした誓いを何より重く受け止めるのかもしれん」
「……お父様?」
「……いや。人の価値を決めるのは、評判じゃないな。目の前の相手を自分の目で見て、選んだのなら――私は、それを信じるぞ、父として、な」
リディアははっとして顔を上げる。
父は、深くため息をついてから、まっすぐに娘を見た。
「だが、お前が何かに傷ついたとき、立ち止まる時があれば――いつでも戻ってこい。ここは、変わらずお前の家だ」
静かな、けれど確かな言葉だった。
リディアは、ゆっくりと目を伏せ、そして笑った。
「……ありがとうございます。お父様」
アドルフの言葉に、リディアは嬉しそうに笑みを零した。
▽
その日の夜、妹のセシリアは日記帳にこう記した。
姉さまが逆転人生を歩み始めた。
私はその応援団長として、これから社交界で余計な虫を全力排除していく。
目標:姉さまの純愛を守る会。会員一名(私)
彼女の小さな策略が、後に元婚約者の転落に繋がっていくとは、この時まだ誰も気づいていなかった。
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