衝撃
住宅街から逸れた道沿いにひっそりと建っている、築五十年の二階建ての鉄骨アパート。
一階と二階、それぞれ二部屋あるのだが、元々は大家の近藤が自分のコレクションを保管するために購入したという。当初の目的通り二階は二部屋とも彼のコレクション置き場になっていて、賃貸として機能しているのは一階の二部屋のみだ。
隣には大きな空き地があり、以前は民家があった。それが何かしらの理由で無人となり取り壊されると、今度は駐車場になった。しかし立地が悪かったようで、利用者が少ないために無くなり、その後は誰の手も入らずに草が生え放題となっている。
アパート自体も古いが、近藤も居住者を募集していないために外観の改修工事をサボっており、外観が古ぼけて怪しい雰囲気が出ている。そのせいであそこは人が住んでいないだのお化けが出るだの好き勝手と噂が立てられ、挙げ句の果てには「この幽霊アパートの呪いで隣の空き地には人が住めなくなっている」と、隣の空き地の原因にもされた。近所の小学校では心霊スポットとして語られているらしい。
その哀れなアパートの一階の一室が、善人の城だ。
玄関を開けて中に入った瞬間、詰めていた息を吐いた。そして立て続けにくしゃみが二つ。今度こそ寒さで体が震えた。
善人は胸に抱いたものを見下ろした。先ほどまで自分が着ていたパーカーに包まれているのは、先ほどの狸だ。
見捨てることができず、結局連れて帰ってきてしまった。つくづく自分でも馬鹿だと思う。今更思っても手遅れなのだが。
それにしても自分も狸もずぶ濡れだ。特に狸は衰弱している。このままではまずいだろうと、もはや靴の機能を果たしているのかわからない靴を脱ぎ、ユニットバスに駆け込んだ。適当に掴んだバスタオルで狸の体をそっと拭く。
ゴワゴワのバスタオルで申し訳なかったが、狸は抵抗しなかった。そんな元気もないのだろう。
どこかから血が出ているはず、と慎重に体を検分したが、しかし出血箇所を見つけることはできなかった。タオルにも血がつかず、思わず首を傾げた。雨の中見たあれは血ではなかったのだろうか。
だが怪我をしていないのであればそれに越したことはない。気を取り直し、友人が置いていったドライヤーも駆使しして狸の体を乾かし終わると、処分を面倒くさがって置いたままにしていた空の段ボールにタオルを敷き、その中に狸をそっと入れた。
ペットボトルにお湯を入れて即席の湯たんぽも作る。これで寒さは和らぐだろう。
後は何か食べ物を……と、思ったが、狸が何を食べるのかわからない。調べようにもスマートフォンは水没して電源が入らくなっていた。どうしようかと悩んでいると、そういえば狸はイヌ科だったはずだと思い出した。それであれば犬用のミルクだったら大丈夫ではないか。善人はそう思い至った。
「ちょっとご飯買ってくるからな。持ってろよ」
目を閉じていて起きているのか眠っているのかわからない狸にそっと話しかける。反応はなかった。
確か駅前の薬局でペットフードを取り扱っていたはずだ。善人は新しく上着を羽織り、グチャグチャになっているスニーカーに足を突っ込んだ。
善人は土砂降りの外に再び出ていった。
駅前の薬局は思ったよりも品揃えが豊富で、無事に犬用のミルクを入手できた。出血はしていないようだったが、念のため包帯も購入する。
家への道を急ぎ足で進んでいると、段々と不安が胸に広がってきた。家に残してきた狸は大丈夫だろうか。容体が急変していないだろうか。
焦りながら家に再び戻ると、玄関の前に人がいた。その人は善人に気づくと「よっ」と手を上げた。
「竜司。来てたのか」
「やっと帰ってきた。こんな大雨ん中どこ行っとったん?」
竜司は善人の大学時代からの友人だ。関西から上京してきたこの男は、一年以上経っても地元の方言が強く残っている。視力が悪く、眼鏡をかけているものの、目をすがめる癖がある。しかも方言のせいで言葉じりが強い。キツい性格ととらわれがちだが、面倒見のいい性格をしている。
現に借金のせいで大学を中退した善人にこまめに連絡をとって会いに来てくれている。
竜司は善人の手にあったビニール袋のロゴをちらりと見た。
「怪我したんか?」
「ん?ああ、いや違う違う」
善人はビニールの口を竜二に見えるように傾けた。包帯と、犬のイラストが描かれたパッケージを見て、周囲を見回して人気がないことを確認すると、声を潜めて言った。
「犬拾ったんか」
このマンションはペット禁止だ。
善人は少し迷って小さく首を振った。訝しむ竜司に、「ここじゃ説明が難しいから中に入ろう」と言った。善人の態度を見てただ事でないと思ったのか、真剣な表情で頷いた。
「ちょっと驚くかもしれないけど、大きい声出さないでね」
友人に忠告しながら家の扉を開けた。
「……ただいま」
声を潜めて言う。天気も悪いため、部屋の中は暗くてよく見えない。善人は竜司のために場所を開けようと靴を脱いで上り框を上った。電気をつけようと壁に手をついた瞬間。
「おかえりなさい」
部屋の中から返事が返ってきて、心臓が止まりそうなほど驚いた。少し首を動かして背後にいた竜司を見ると、彼も靴を脱ごうとした中腰の姿勢のまま硬直している。何か武器になるものはないか、と思ったがあいにく鍵ぐらいしか役に立ちそうにない。鍵をナイフのように持ち、部屋の中に向けながら電気のスイッチをつけた。
「……誰だ!?金目のものはないぞ!」
しかし部屋の中は善人が想像していたものとは違った。
部屋の中に不審者はいなかった。窓もしまっていて、荒らされた形跡もない。
「……タヌキ?」
予想外のものを見た竜司が、呆けたように呟いた。
彼の言葉の通り、そこにいたのは狸だった。
善人が助けた狸が段ボールから出て部屋の真ん中にちょこんと座っていた。
「助けていただきありがとうございます。おかげで救われました」
狸はそう言って深々と頭を下げた。
喋る狸を目の前にし、善人は絶句した。
「助けていただいたばかりですみません。お話させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
狸が続いて話しかけてくるが、頭が真っ白で反応できない。
「……」
「……あの?」
反応のない善人に、狸が戸惑うように声をかけた。その時、
「しゃ、しゃべったぁぁぁ!!」
マンションに竜司の絶叫が響き渡った。
家にあった平皿に犬用ミルクを注ぐ。竜司が先日置いていった漫画雑誌を2冊ほど重ね、その上に皿を置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げられた。礼儀正しい狸だ。
「あ、温めた方がいいですか?」
思わず善人も敬語になってしまう。
「あ、いえいえお構いなく」
狸はそういうとチロチロとミルクを舐めた。それを見て善人と竜司も自分たちのために入れた麦茶を一口飲んだ。
よほど空腹だったのか、ひとしきり飲むと狸は満足そうに息をついた。
「本当にありがとうございます。感謝してもしきれません」
「ああ、いえいえ……」
「先ほども言ったのですが、命の恩人のお二人にお話したいことがありまして、少々お時間を頂いてもいいでしょうか?」
狸が自分になんの話だろうか。善人と竜司は顔を見合わせたが、戸惑いながらも頷いた。そんな二人を見て深々と頭を下げた。
「突拍子もない話とは思うのですが……」
少し迷うそぶりを見せた後、意を決したのか顔をあげた。
「私は勇者です」