事件
ひぐらしが鳴き始める時期になり、昼は相変わらず暑いが、夜は涼しさも感じるようになってきた。
善人はその日も骨董品店へのアルバイトに向かうための準備をしていた。
「そろそろバイトに行ってくるね。リアティオス、君も来る?」
善人が振り返って尋ねると、リアティオスは首を振った。
「いえ、ちょっと調べたいことがあるので今日は遠慮しておきます。善人さんがお仕事の間、私も外に出ていいですか?」
「うん、いいよ。ただし、まだ暑いから熱中症にはくれぐれも気をつけてね」
「わかりました」
二人は一緒にマンションの部屋を出ると、玄関の前で善人は再びリアティオスに言い含めるように言った。
「水はこまめに飲むんだよ?人通りが多いところは気をつけて。何かあったら前紹介したお店に来てね。あと――……」
リアティオスは苦笑した。この注意は何度も聞いている。年の離れた妹がいるせいだろうか、善人は心配性だ。
「ご安心ください。この近辺を回るだけですし、以前善人さんにご近所を案内してくださったので地理は頭に入っています。気をつけるように言われた場所には近づかないようにします」
リアティオスの反応に、善人も過保護な自分の言動に気づいたようだ。恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ごめんごめん。小さい子じゃないんだからもう大丈夫だよね。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
善人を見送り、リアティオスは気を引き締めた。
今日やろうと思ってたこと。それは先日感じた魔力の回復についての調査だ。
魔力の回復を感じたのは、実はあの落とし物を届けた時一回だけではなかった。
落ち込んでいた善人を励ました夜のことだった。
『ありがとう、リアティオス。君がいてくれてよかった』
その言葉をかけられた瞬間、前回と同様に自分の中に魔力が戻る感覚がした。しかも前回の微かな魔力ではなく、もっと大きかった。そのおかげで魔力の回復を確信できた。
前回と今回、共通しているのは感謝されたことだ。
元の世界では魔力は何か特別な作業が必要なわけでもなく、自然回復だった。
こちらの世界にきて数週間経つが、時間では魔力は回復しなかった。あくまであの二回の経験でのみだった。
二回のみではまだ確信が持てない。できればもう一度試してみたい。
「さて、上手くいきますかね」
リアティオスは気合を入れると、マンションの敷地から出た。
――が。
外は予想以上に暑かった。
時刻が正午になるにつれ、どんどんと気温が上がっていき、照らされたアスファルトが灼熱のごとく熱さになっている。
善人と外出する時、彼は朝か日が暮れかけた夕暮れを選んでいた。その優しさを今更ながら実感した。
リアティオスは日本の夏をこれでもかと味わうと、へとへとになって帰ってきた。
「む、無理ぃ〜」
這々の体でマンションに到着したが、
「あ、鍵……」
善人はアルバイトでまだ帰ってきていない。思わず脱力して扉の前でぐんにゃりと倒れた。
「うう、仕方ない。善人さんのバイト先に行くしかないか」
よっこいしょ、と体を起こし、またマンションの敷地から出ようとして、ふとマンションの駐輪場に目をやり、ギョッとした。
人の足が見えた。誰か倒れているのだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
通じないのはわかっているのに思わず叫んでしまう。走って近づく。
「あ、あなたは……!お隣さん!」
そこにいたのは善人の隣人、原だった。頭から血を流して倒れている。
「どうしたんですか!?血が出ていますよ!?」
キャンキャンと吠え立てたが、原は目を開けない。どうやら気絶しているようだ。
よく見ると頭部からの出血も止まっていない。
「待っていてください、いま治しますので!」
リアティオスはそう言うと回復魔法を原にかけた。魔力を宿した前足が光り、そのまま血が出ている箇所を触って止血をする。どうやら傷は深いらしく、なかなか血が止まらない。あっという間に魔力が底をつきかける。そうこうしていると原が意識を取り戻した。
「う……」
「あ!大丈夫ですか!?」
「うるさ……」
「もう少しで傷が塞がりますからね!気をしっかり持って!」
原は最初焦点があっていなかったが、リアティオスに気づいてうめくように言った。
「きみは、隣のとこのペット……」
「動かないでください!はあ〜!」
リアティオスは最大限の力を込めた。が、ぷすん……と音がして前足の輝きが消えた。
「魔力切れ……」
「人が苦しんでんのにおならしやがって……」
「ち、違いますよ!!」
「携帯も部屋に置いてきちゃって……。誰か……助けて……」
声は弱々しく途切れた。目が閉じられている。再び気絶したようだ。
ほとんど使い切ってしまい、かろうじて自己治癒できる程度にしか魔力が残っていない。もう回復魔法をかけられない。
彼女がどうして怪我をしているのかリアティオスにはわからない。しかしこのままではまずいことはわかる。
誰かいないかと道に飛び出すが、周辺に人影はない。原の部屋の前にも行くが、彼女も一人暮らしのようで人の気配はない。玄関も固く閉じられていて開けられない。
再び原のところに戻る。よく見ると倒れているところは日陰ではない。ただでさえ怪我をしているのに、長時間この暑さの中外にいたらいけない。
だが、今の自分では何の役にも立てない。誰か他の人間を呼んでこなくては。
「待っていてください!人を呼んできます!」
リアティオスは原にそう言うと、再び外へと飛び出した。