Seg 58 ハルのおとずれ -02-
まだ目覚めないユウを抱きかかえての移動が、だんだん億劫になってきた。
ミサギは戻る足取りを重くしつつ、とうとう立ち止まってしまう。
「まったく重くはないけれど、今の状況は明らかに誤解を生みそうだ」
普段体を動かさないがため、上気し染まった頬。
意識の無いユウをお姫様抱っこした格好。
戻れば、絶対にミシェルとアスカに揶揄われるだろう。いや、確定事項だ。
二人の年の差を考えると、まず間違いなく事案に発展する。
誤解だけならともかく、無駄にはやし立てられるのが厄介で鬱陶しくて、考えただけで腹立たしい。
面倒と思いつつ、ユウを背に乗せ直す。
「はは……子供体温だな」
背中の温もりが心地よくて、自然と笑みがこぼれる。
ふわりと香る甘く幼い匂いも、なんだか胸のあたりがくすぐったくて仕方がない。
だからだろうか。
先程からユウの事ばかりを考えてしまう。
――もう、兄ちゃんにも周りにも迷惑をかけたくないんです
記憶の中でのユウは、必死に縋る眼でミサギを見ていた。
――ケガをしてほしくないです……!
考えれば考えるほど、彼の口からため息が落ちる。呆れ、ではなく、気持ちの切り替えである。
「生まれた時から破天荒な子が何を言うんだか……ヒスイも苦労するはずだ」
今のまま、ずっとユウを抱えて歩いていたいと思う反面、早く目を覚ましてほしいと心配もある。
ガサリ
矛盾する気持ちに少々混乱していると、前方から黒い塊が飛び出してきた。
森の木々が影を落とし姿はわからない。だが、ミサギに驚動の様子は一切なかった。
突然襲われたとしても、返り討ちにすればいいだけなのだ。
「動くな《ヴェスェス》」
案の定、言霊でビタッと動きが止まる黒塊。
やれやれと、正体を探るべく近づく。
「!? 君は――」
言おうとしたところで、みっちゃんとアスカの声がけたたましく響いてきた。
ミサギとユウを探して叫ぶ声があまりにも必死だからか、さすがに少しだけ不憫に感じたミサギは、木戸を脳裏に浮かべる。
彼を呼ぶには充分だった。
◆ ◆ ◆
「……! 皆様、ミサギ様がお呼びです」
珍しく焦りの様子を見せる木戸に、皆の緊張が高まる。
まさか。
東条ミサギに限って――
万が一なんて事が……
心配が稀有であってほしいと、それぞれ胸の内は不安でいっぱいだった。
木戸を追いかけ、木々をすり抜け葉の茂みを掻き分けて行く。と、ようやく暗い中でミサギの立つ姿が見えた。
陽もほとんど射さない薄暗がりの中、静寂閑雅な立ち姿の彼は、誰が見ても息を呑み、時が止まったのも忘れて見惚れる美しさだった。
「……はっ! 時が止まっちょったがな!」
「呼吸を忘れてしまっていたな……しかし良かった、無事であったな」
「あーもう! 心配したよー! プライバシー侵害だと思ってGPSは控えたんだけど、やっぱり付けとけばよかったよー!」
「そんなものつけたら、今後一切協力しないからね」
ミサギに睨まれ、笑顔で「ミサギ君はそうでないと」とアスカは、いつもの彼であることを喜んだ。
「それより、急いで手当てをしてほしいんだが」
彼の背には、意識の無いユウが力無くうな垂れている。
森のせいでよく見えないが、きっと怪我をしたのだ。
「ユウどん、大丈夫かいな!? すぐ医者に」
「いや、ユウ君はただ寝てるだけだから問題ない。手当てが必要なのは……」
言いつつ視線を落とすと、ミサギの足元には一人の子供が倒れていた。
十代後半ほどの少年。
髪も顔も、体中が血と砂埃と草にまみれ、右腕に至っては二の腕から先が見当たらない。止め処なく溢れ出る血は、赤黒くジワジワと出たかと思えば、波打つように鮮やかな赤色がふきだしている。
あまりにも酷い有り様だった。
はっきりと判別できたのは、アスカが再び伸ばした機械の腕と明かりのおかげである。ユウを治療するつもりだったのか。タコのようにいくつもの腕が背から生えて、注射器だのメスだの、様々な医療器具が取り付けてあった。
「ちょっ! あんまり明るくしないでくださいッス! ただでさえグロくて――うぉぇえ……」
「だったら向こうに行っていろ! ヘタレ助手が!」
緇井は所長権限と剣幕で吉之丸を追いやった。
「手伝おう! 須奈媛殿、小さな怪我は我々でやる。右腕は貴殿に任せても?」
「任せて! 飛び級して医術も修めたしライセンスもあるよ♪」
証拠だと言って、パーソナルカードを皆に見せるアスカ。
「すごいな……イヅナの研究者の名前は伊達ではないのだな」
緇井が驚く間にも、少年の治療はテキパキと進める。気づけば彼女のぶんまでも済ませ、残るは安静のみとアスカは軽く汗を拭った。
「この子すごい生命力だよ。明らかに失血死の域をぶっ千切ってたのに、脈は正常、エスピ――」
「それはいいから」
アスカの専門用語を遮って、ミサギは少年の顔を木戸に確認させる。
「やっぱり……久原財閥の御子息だ」
一堂が静まり返る。
『……はあぁぁあっ!?』
皆が声を揃えて驚いたのは、数秒どころか、一分近く経過してからのことだった。誰もが理解するのに、それほど時間を要した。
「久原財閥って、あの久原!? 文房具から車から銀行までやってる大企業じゃん!」
「お、俺……CMソング覚えてるッス……」
遠くで吉之丸が具合悪い声で無理やり参加してきた。
同時に、皆の脳裏にCMソングが流れてしまって、状況がさらに混沌としてきたのは仕方の無い事だった。
「まてまてまてっ! 頭の回転が追いつかんがな! てか、CMソングで場をかき乱すなやっ!」
「うちのバカ助手がすまない!」
場が落ち着くまで待てず、ミサギは少し苛ついた声で訊ねる。
「確か御令嬢が今回の事件に巻き込まれ、御子息が行方不明になっていた……だっけ? 緇井さん、あなたの資料に載っていた内容だ。確か、ご両親には秘密で彫ったとされるタトゥーがあるようだけど?」
言って、示す首筋には肌の色に見え隠れして鎖に繋がれた三頭狗が彫られていた。
「た、確かに……聞いていたものと同じタトゥーだ。だが――」
彼女は言いよどむ。冷や汗を流すところを見ると、ただ事ではない。
「か、彼のかような状態を財閥に報告するとなると……私の首が――」
緇井は想像するだけで顔から血の気が引いた。
「報告についてなら心配いりませんよ。僕が何とでもしますんで。ですが、回復するまで保護をお願いしてもよろしいですか?」
「ほ、本当か? 助かる……いや、任せろ!」
当然の事だと、彼女は事務所で彼の保護を約束した。
緇井の言葉に、ミサギも頷く。
「もちろん。搬送用の車は――」
「ご用意できております」
と、木戸。
「だそうだ」
誰もが彼の判断に疑問を持つことなく従う。
まさか、過ちがあろうとは、誰も知る由がなかった。





