イートン伯爵家の夜会・5
「あの……もしよかったら、お嬢さんに屋敷をご案内しても?」
ロザリーはしゃがみこみ、クリスの手を取った。
クリスは先日のことを気にしているのか戸惑ったまま、オードリーを見上げている。
大人ばかりのパーティ会場でクリスが委縮しているのは確かなので、オードリーはロザリーの好意に甘えることにした。
「お願いできるかしら、私はしばらくご挨拶して回るから」
「はい! クリスさん、私のことはロザリーと呼んでください」
「ロザリーちゃ……さん」
「はい」
笑顔で答えると、クリスは少し逡巡したようだったが、ロザリーとつないだ手に力を込めた。
ロザリーはそれが泣きたいほど嬉しかった。ずっと、不安にさせてしまったことを謝りたかったのだ。思わず両手で、その小さな手をギュッと抱きしめる。
「じゃあ、私達は探検に行ってきますね!」
元気にそう言い、ケネスとも一度別れる。
イートン伯爵家の夜会は、弦楽四重奏の音楽は流れているが舞踏会ではない。基本は情報交換を目的としたもので、料理は立食形式だ。人々は出てくる料理を自ら皿に取り、そのおいしさに舌鼓を打ちながら歓談している。
ザックは今は人と話しているばかりでほとんど食べていない。元々、先に安全な食事をさせてある程度お腹は膨らませているらしいので、しばらくは安全そうだ。
ロザリーはクリスに食べ物を取ってあげ、部屋の端まで寄った。
「この間はごめんなさい。クリスさん。会えてよかったです」
小声でそう囁くと、クリスは心底ほっとしたようだ。
「ロザリーちゃん、ママが」
「分かってます。私達、オードリーさんとクリスさんをレイモンドさんに会わせてあげたくて。それでこの夜会を開いたんですよ」
「レイもいるの?」
クリスはクルミのような大きな丸い瞳で見上げてくる。
「今日のお料理、レイモンドさんが作ってるんですよ。おいしいから、いっぱい食べてください」
クリスはまじまじと料理を見て、一気に食べ始めた。そんなに勢いよく食べたら、むせてしまいそうなほど。
「おいしい! レイの料理、とってもおいしいよ」
「ですよね。私も久しぶりなのですっごく嬉しいです」
久しぶりのクリスの笑顔に、ロザリーも心底ほっとした。
ひとしきり食べ終わると、クリスはロザリーの手をキュッと握った。小さな手は、なにか強い決意を秘めたように力がこもっている。
「ロザリーちゃん、クリス、レイに会いたい」
「クリスさん。……でも」
「レイに会いたいの。ママが泣いてるって伝えたら、レイは絶対助けてくれる」
子供の目は正直だ。きっとクリスには、母親に何の利害の計算もせずに愛情を向けてくれるのがレイモンドだと分かっているのだ。
だが今、厨房は戦場のはずだ。連れて行ってもちゃんと会わせられるかは分からない。
そう説明しようかとも思ったが、ギュッと両手を握り込んで深刻な顔をしている少女に、頭で理解しろとは言えなかった。
「……うん。行ってみましょう。でも厨房は今慌ただしいのでお話はできないかもしれません。それでもいいですか?」
「行く。レイの顔が見たいの」
ロザリーとクリスは給仕にお皿を返すと、手を繋いで広間を出た。
ケネスかザックかに不在にすることを伝えたほうがいいかとも思ったが、ふたりとも、それぞれ招待客と話し込んでいてなかなか視線が合わない。
ザックの隣にいたクロエと目があったので、軽く手を振って、抜けることを伝えてから部屋を出た。
廊下にも招待客の一部は流れていた。
その間を、給仕の青年たちが申し訳なさそうに通っていく。広間からの音楽は徐々に遠ざかり、厨房への角を曲がると、客よりも使用人の方が多くなってきた。
「あ、失礼。……と、クリスじゃないか」
クリスもロザリーも身長が低いので、普通に歩いていると対面を歩く人の顔がよく見えていない。
顔を上げて、それがウィストン伯爵だと気づいて、ロザリーは思わず息を止めた。クリスもつないだ手に伝わるくらいに体をびくつかせる。
「おじさん……」
「おいおい、おじさんはないだろう。いずれ君の父親になるんだから。すみませんね、お嬢さん。クリスが迷惑をかけておりませんか?」
クリスのことを簡単にあしらい、ウィストン伯爵はロザリーに向き直った。
先ほど、ケネスがイートン伯爵家で面倒を見ている令嬢だと紹介したからか、ロザリーに対しては敬意をみせる。
「クリスさんはとてもいい子ですわ。それより、オードリーさんはどうされたんですか?」
「ああ。今はオルコット夫妻と広間で食事をいただいているんじゃないかな。私は少し散歩をさせてもらっていました。イートン伯爵家を訪問するのは初めてなもので」
「……そうなんですか」
「見事な調度品ですね。あのツボも、あの絵画も名のある人物の作でしょう」
それらを見たかったのだとしても、一緒に来たパートナーを放っておくだろうか。いくら両親もいるとはいえ、オードリーにとって彼らは実の親ではないのに。
ロザリーの胸に不信感がむくむくと沸き上がる。
「オードリーさんも、慣れない屋敷で不安だと思います。どうか戻って差し上げては」
「そうですね。お気を使わせて申し訳ない。クリスも一緒に行こうか?」
差し出された手に、クリスは首を横に振った。
「クリスさんは、私がお誘いしたんです。子供にこそ探検が必要だと思って」
「そうでしたか。ではロザリンド殿、申し訳ありませんがよろしくお願いいたします」
ウェストン伯爵は、クリスに視線を送ることもなく広間の方向へ向かって歩き出した。
クリスは黙ったまま、ロザリーの手を握る手に力を籠める。
「クリス、あの人やだ……」
「……ええ」
「おじいちゃんもおばあちゃんもあの人も、良くしてくれるけど、それだけなの。ママのこともクリスのこともちゃんと見てくれない」
クリスに目線を合わせようともしない。心配しているようなことを言いながら、何ひとつクリスのことなど考えていないのは、傍目で見ているロザリーにも分かる。
「行きましょう、クリスさん、こっちです」
「うん」
クリスの声に、熱がこもる。
クリスはきっと、ずっと探しているのだ。自分をちゃんと愛してくれる人、自分をちゃんと見てくれる人。裕福な子爵家に生まれ、不自由なく暮らしているにもかかわらず、クリスの瞳はいつだって本物の愛情を探している。
ロザリーは父母にも祖父母にも愛されて育った。だから、クリスが抱える不安は、本当には理解できない。分かるのは、彼女が安心できる環境を求めているということだけだ。
「私はクリスさん、大好きですよ。微力かもしれませんが、力になりたいんです」
「ありがとう、ロザリーちゃん」
温かい手を握りしめながら、ロザリーは強く願う。
(ああどうか。この子が幸せになれますように)




