令嬢教育と王家の確執・4
「それは災難だったね」
バーナード侯爵が帰った後、疲れ切ったようにソファに体を預けるザックに、お茶をふるまうのはケネスだ。
「夜会に出るならパートナーがいるだろう。ロザリー嬢を呼んだらどうだい?」
「駄目だ。彼女にまで危険が及んだらどうする。呼ぶならすべてが落ち着いた後だ」
「全てが落ち着くときなんて来るのかい? 病弱な王太子と健康だが頭に難のある第三王子と腹違いの第二王子。この構図を見ただけでも、平和とは程遠いと思うんだけどね」
政治の派閥とは別に、王家の家族関係も平和とはいいがたい。
在位が長く、政治への関心を失いつつある父王。野心を抱えた兄を持つ第一夫人とその息子たち。身分が低く、精神的に病んでいる第二夫人とその息子であるザック。
どこをとっても完璧とはいえず、議会内でも誰を推していくべきか方針が定まっていない陣営も多くある。
せめて王太子バイロンが健康であれば、ザックが彼らの悪意を受けることはなかっただろう。
王に今何かがあっても、王位を継承するのはバイロンだ。そうなれば、母である第一王妃とその兄であるアンスバッハ侯爵は望みの権力を手に入れられる。
しかしもし、バイロンが先に逝去することになれば、法により王位継承者は第二王子であるアイザックに移る。たとえ第三王子のほうが血統的に正しくても、それは揺るがない。
まさに、第一王妃とアンスバッハ侯爵にとっては、ザックは目の上のたんこぶなのである。
「しかも俺がバーナード侯爵派についてるんだから質は悪いよな……」
敵視される覚えはある。だからこそ、ザックは弱みを見せられない。
ザックにとっての大切な人がロザリーであると知れたら、彼女にどんな悪意の手が伸びるか分からないのだ。
「ロザリーを危険から守るには、彼女の存在に気づかれてはならないんだ。だから手紙だってこうしてお前に頼んでるんじゃないか」
三日と開けずに書かれる手紙をケネスは苦笑しながら受け取った。
「そうだね。ああ、これがロザリー嬢からの返事だよ。君たちはお互いに筆まめだね」
「手間をかけさせて悪いな」
受け取って、彼女の筆跡を検める。ロザリーは丸みの帯びた字を書く。アルファベットのaとuが似て見えて、たまに読み間違えてしまって苦労するが、それもまた楽しいと思えてしまう。
「……ロザリーに会いたいな」
「そう思っているなら、やせ我慢などしなきゃいいと思うけどね、俺は」
誰にも聞こえないように音を出さなかったつもりだが、ケネスには聞こえていたようだ。
苦笑したまま、ザックは黙り込んでロザリーからの他愛もない話題満載の手紙を眺めた。
そんな風に王都での生活をスタートさせたザックは、不在の間に決まった政策や出来事をすべて確認し終えたあと、第一王子の見舞いに向かった。
王都に戻ってから、挨拶を済ませていないのは病床の兄だけだったので、早々に形だけでも済まそうと思ったのだ。
城の三階にある兄の私室の前には衛兵がおり、兄弟だというのに執拗にボディチェックを受けさせられる。
ようやく許可が出て、半ば辟易しながら扉をノックした。
「兄上、入りますよ」
薄暗い室内。ベッドに横たわる王太子バイロンは、生気を失った瞳で、一年ぶりに会う弟を眺める。
二十六歳とは思えぬ体の線の細さ。父親譲りの金髪はくすみ、だらしなく伸びている。
「なんだ。アイザックじゃないか。生きていたのか」
「そうですね。あいにくピンピンしております」
見舞いにと花を持ってきていたが、すでに枕もとの花瓶は満開だ。
「……後で侍女に渡しておきます。今日は帰城の報告に伺っただけなのです」
「まあ、お前が帰ってこようがどうしようが、俺には関係ない……ごほっ」
話すだけでも疲れるのか、咳き込んだ王太子の背中が曲がっていく。はあ、はあ、と息を荒げ、苦しそうに胸元を押さえた。
「兄上、主治医を呼びますか?」
「いい。じっとしていれば収まるんだ。医者を呼んだって薬湯を処方されるだけだ。それより、アイザック。そこのテーブルの上に菓子があるだろう」
言われてテーブルを見ると、小さなお皿に焼き菓子が三つ乗せられていた。
「料理長が作ってくれたんだが、この通り食欲もなくてね。しかし皿を空にして戻さないのも気が引ける。お前、代わりに食べてくれないか?」
「俺が……しかし料理長ならば兄上の健康を気遣って作ってくれたのでは?」
「ああ。だがそれも口にできないくらい体調は悪い。……それも知られたくないのだよ。お前ならわかってくれるだろう。次期王」
アイザックは次期王ではない。王位継承権は今もバイロンが第一位だ。
この発言は、バイロンが自分の生をあきらめた宣言だともいえる。
そもそもザックは王位など望んでいない。だがバイロンは異母弟が王位を狙っていると執拗に思い込んでいるのだ。ザックは唇を噛みしめできる限り当り障りのない言葉を選んだ。
「……父上が一番期待し、跡を継いでほしいと願っているのは兄上です。どうかお元気になってください」
「心にもないことを言うな。そんな体力が俺のどこにある」
「兄上」
「頼むから、……その菓子を持って消えてくれ」
腹違いの弟の存在が、彼にとっていい影響を与えないことなど分かり切っている。
ザックは言われるがまま、菓子を手に取り、兄の部屋を出た。
「やあ、どうだった。ザック」
執務室で出迎えてくれるのはケネスだ。心を許せる存在を見て自然と体から力が抜ける。先ほどまでどれだけ気を張っていたのかを、ザックはこのタイミングで実感した。
「その手に持っているのは何だい?」
「兄上からもらったものだ」
「バイロン様から? 珍しいな。しかも食べ物なんて……捨てたほうがいいんじゃないか」
ケネスの心配そうな表情に、一瞬ザックは意味が分からなかった。
やがて毒の存在を懸念しているのだと気づき、まさか、と首を横に振る。
「これは兄上用に料理長が作ったものだぞ?」
「それを証言しているのは今のところバイロン様だけなんだろう?」
ケネスは常ににこやかだが、ザックよりも客観的に物事を見る。だが、ザックには逆に意地のようなものもあった。仲は良くないが、兄弟間で殺し合いするほど殺伐した関係だとは思いたくない。
「大丈夫だよ」
口もとに運ぼうとした手をケネスが「まあ少し待てよ」と止める。そして出窓を大きく開き、ワックス紙に乗せた菓子を外に近い位置に置いた。そして、窓から見える位置の木々を確認する。
「ちょうどカラスもいる。食べてくれるといいけどね」
そしてカラスが寄ってくるようにと、自分のカフスボタンをはずし、その近くに置いた。ザックは少しばかり眉をひそめた。
「ケネス、大丈夫だって」
「君は王子だ。用心するに越したことはないよ。侍女がお茶を淹れてくる間だけでいい。待ってみよう」
ザックは不満顔のまま執務机に座り、ケネスは侍女を呼びつけお茶を頼んだ。
待つ間、ふたりの間に会話はなかった。そのうちに窓から一番近い木にカラスが止まり、きょろきょろと中を窺い、窓際まで飛んでくる。そしてクッキーを口にし、そのあとカフスボタンを咥え、飛び立った。
「……平気そうじゃないか?」
「そうだね」
ふたりが見送った次の瞬間、「カーッ」とつんざくような鳥の鳴き声がしたかと思うと、どすっという鈍い音がした。バルコニーから身を乗り出して見つめると、庭に先ほどのカラスが泡を吹いて落ちているのを見つけた。衛兵たちが何事かと集まってきている。
「……ほら、俺の言うことを聞いていて正解だったろ?」
そう言うケネスに、蒼白になったザックは返事も出来ない。
「……兄上のところに行ってくる」
「あ、こら、ザック。待てって」
「どういうつもりなのか、直に聞きたいんだ」
「ザック。待つんだ。このままじゃ君は一年前の二の舞だ」
「うるさい」
立ち上がって、部屋を出ようとしたザックは、お茶を持ってきた侍女とぶつかった。
「きゃっ、申し訳ございません。アイザック様」
「こっちこそ悪い。茶は入れておいてくれ、すぐ戻る」
そしてそのまま、廊下に出て行ってしまう。訳の分からない侍女は、部屋に残っていたケネスに、おそるおそる声をかけた。
「あの、ケネス様」
「いいよ。君はお茶を淹れてくれるかい?」
ケネスはため息をついて、彼が消えていった扉を眺めた。
「……やっぱり、君にはロザリー嬢が必要なんじゃないのかい」
ポツリとこぼしたケネスの声は、ザックに届くことはなかった。