プロローグ~とある未亡人のモノローグ~
モーリア国は広大な領地をもつ大国だ。しかしながら、大きすぎる国を管理するのは並大抵のことではない。
オードリーがそんなことを感じるようになったのは、市場で売られる野菜や果物の品質が値段の割に悪いことに気づいてからである。
オードリー・オルコットは三十一歳。
王都の最高学府ポルテスト学術院で教鞭をとっていた夫を四年前に亡くし、現在、夫の両親と娘のクリスとともに暮らしている。
夫の父親は子爵位を持っている資産家で、夫を亡くして以後も、オードリーは金銭面で困ることはないままクリスを育ててきた。
夫との間にあったのは、愛というよりは尊敬という側面が強かったが、娘のことはかわいい。
オードリーはクリスを育てることだけを希望として、この先の人生を暮らしていくつもりだったのだ。
しかし、先月、アイビーヒルに里帰りしたときに、幼馴染であるレイモンド・ネルソンと心を通わせあった。
クリスも懐いているし、彼とならば夫とは育めなかった愛を一緒に育てられるかもしれないと思った。
だが、実際に結婚となれば問題はいろいろと出てくる。
レイモンドはアイビーヒルで【切り株亭】という宿屋を経営している。彼の作る食堂の料理が人気で、食堂だけで見れば大きな利益を上げているが、老舗ゆえの整備費やもろもろがかかり、生活はぎりぎりだ。
それでもオードリーは彼について行こうと思っているが、金銭的に何不自由ない今の生活よりも、生活の質は落とさざるを得ない。
その点で、夫の両親は反対しているのだ。
オードリーが屋敷に戻ってすぐ、夫の両親に再婚について切りだすと、彼らはまず相手について根掘り葉掘り聞いてきた。
オードリーはレイモンドが幼馴染であること、料理人としてはすごい腕の持ち主であることを熱弁し、ここを出ていくことを許してほしい、と深く頭を下げたが、夫の両親は顔を見合わせ、渋い顔をするだけだった。
『今までの生活に何の不満がある? 何ひとつ不自由させていないはずだ。まして相手が料理人だなんて。クリスにそんな下々の生活をさせるわけにいかない。どうしても出ていきたいというならクリスを置いて行きなさい』
クリスのことを持ち出されると、オードリーもそれ以上強気には出られなかった。義父の言葉は、ある程度真実をついている。たしかに、暮らしぶりを考えれば、今までとは比べ物にならないほど、質素にならざるを得ないだろう。
しかし、心のほうはどうか。
クリスはレイモンドには懐いているし、彼も昔からクリスをかわいがってくれている。クリスにとっても絶対にアイビーヒルに行った方が幸せになれると確信できる。
ただ、それを言ってしまうのは、これまでよくしてくれた義父母に対してあまりに薄情なのではないかと思えた。
かといって、娘を置いて行くなど、オードリーにはできない相談だ。
『今まで生活させていただいたことは感謝しています。でも、私もあなた方の実子ではありません。夫が死んでもう四年です。再婚する権利はあるはずです。そしてクリスは私の娘です。手放すなんて絶対に嫌です』
オードリーは必死に訴えたが、許しはもらえなかった。
オードリーの外出時にはまるで見張りのように従者が付いて回るのだ。
そんなわけで、オードリーはいまだ屋敷を出ることができず、途方に暮れている。
家の中に居てもふさぎ込みたくなることばかりで、本日オードリーはクリスを連れて市場に来ていた。ちょっとした気分転換だ。後ろから一定距離を開けてついてくる従者に関しては気にしないことにする。
「ママ、どうしたの?」
「なんでもないわ。クリス」
娘に心配をかけるまいとオードリーは笑って見せる。しかし、クリスは母親の感情に敏感だった。嘘の笑顔だと見抜いたかのように、つないでいる手に力を籠め、ぽつりとつぶやく。
「ロザリーちゃん、元気かなぁ」
「きっと元気よ。お手紙も出したでしょう?」
「うん。お返事来るの待ってるの」
娘がすっかり懐いた女の子を思い出し、オードリーも頬を緩める。
癖のあるピンクがかった金髪が、ふわふわと揺れていた。まだ幼い感じがしたけれど、レイモンドが言うには十六歳のどこかの令嬢で、身寄りが無くなったから働こうと仕事を探してやって来たので雇ったのだそうだ。
『遊郭なんぞに行かれても寝覚めが悪いだろ?』と誤魔化されたのだが、実のところ、彼自身彼女を気に入っているようだったので、オードリーも内心穏やかではない。まあ、年齢差を考えれば、レイモンドが彼女を恋愛感情で見ることはないと信じてはいるけれど。
(そういえばあの子の傍にいた男性……)
彼女とよく一緒に歩き回っていた黒髪の端正な顔の男性を思い出す。
いないわけではないが、この国では黒髪は少数だ。オードリーは彼にどこかで会ったような気がしてならない。
夫の研究を手伝っていたころなら、学術院にも出入りしていた。その時の生徒のひとりだろうか。
「一体、どこから仕入れてきたんだよ、こんなもん! 腐ってんじゃねぇか」
罵声が聞こえてきて、オードリーは思考の海から飛び出した。
クリスはびくりと体を震わせ、彼女の腕にすがってくる。オードリーはクリスを守るように背中に手をまわし、そそくさと歩き出した。
最近、こんな声をよく聞く。以前よりも治安が悪くなっているのだ。活気があった市場も、最近は品物の鮮度が悪く仕方なく買っているような状態だ。
「一体議会は何をしているのかしら」
国を動かすのは政治家の役目だ。国王をはじめ有力貴族は、議会で運営方針を決め、国が繁栄するように市場や社会福祉を管理する責任があるはずだ。以前は議会が何度も議論を重ね、国王様の承認も経て政治はきちんと回っていた。一年前までは、オードリーはこの国の平和を疑ったりしなかったのに。
(……王家と言えば)
オードリーはふと、思いつく。
そういえば王家にも黒髪の王子が一人いたはずだ。
第一王子バイロンと第三王子コンラッドとは母が異なる、異国の血が混じった第二王子アイザック。
あまり表に出てくることはないので、すでに記憶は朧気だが、その彼の姿が、先日アイビーヒルで見たあの青年に重なった。
「そうだわ。アイザック様に似ているんじゃない……!」
第二王子アイザックは、以前は政務にも精力的にかかわっていたはずだ。それがここ一年ほど、何の噂も聞かない。
オルコット家には昔から付き合いのある貴族から夜会の誘いが多く来る。オードリーは未亡人という立場からあまり積極的に出席はしないが、義母から聞かされる噂話には結構な情報量がある。
「いやでも。あんな片田舎にいるはずがないわ。あり得ないわよ」
オードリーは首を振ってその思い付きを追い払った。
いくら生粋の王族ではないとはいえ、王子があんな下町をふらふらしているわけがない。
「ママ、なーに?」
「ううん。何でもないの。そろそろおうちに帰ろう、クリス」
「うん!」
その予想が正しいということを、この時点のオードリーは気づいていない。