8/高橋愁の視点、西川志乃と見知らぬ男
僕が彼女を再び見かけたのは、八月の終わりだった。離別からは三年が近く経っている。
僕は懐かしさと再び僕の脳裏を彷徨う淡い慕情とで、声をかけるか否か迷う。そして彼女の隣に立つ見知らぬ男の姿を見とめた。彼女に父はいない。彼女の母は僕が彼女と過ごした二年間の中に何度か恋人を変えたようだがそれはあくまで西川朝海という人の恋人であり、志乃の父親たり得ない存在だった。当然志乃が彼らと並んで歩くようなことはない。
志乃は優雅に快活に笑っていた。それは僕が知っている志乃であり、僕が恋をした志乃だ。彼女は三年の後にもちっとも変わらない。僕はと言えば少々内に籠るようになった。遠目からも陶器のような肌と痩身は健在で、真白で簡素なデザインのワンピースがよく似合っている。黒い黒い髪が靡く様が、夏の痛い日差しの中で幻のように僕の眼に映った。
彼女と並んでいるのは痩身で背の高いスーツの男だった。二人はそれは自然に腕を組み歩いている。僕は密かな嫉妬を押し殺して彼らを見つめる。そして苦笑する。自分はまだ彼女に固執しているのかと思うと、我ながら粘着質で滑稽だった。
僕は如何しようかと迷う。僕は今や深い好奇心と忘れたはずの嫉妬心に駆られて身動きが取れない。これから特に予定があるわけではなく、まずいことに時間はたっぷりある。そして残念なことに自分の足が自然に彼らの方に向かうことを止める術を、僕は知らない。これは明らかにすべきではないことだ。過ちといえるだろう。けれど僕の中には微塵の迷いも自責も怯えもなく、良心は深い眠りの底で身動きすらしない。僕は、人間には過ちを犯すことを止められない瞬間があるということを初めて知った。
僕は彼らの後ろを歩く。僕と彼女の間には十人程の通行人がちらついている。彼らは楽しげに歩く。僕はそれをじっと見つめる。
僕の嫉妬を原動力とした追跡は長くは続かない。信号を三、四回渡った後、彼らは駅裏の駐車場に止められた漆黒のロータス・エリーゼに乗り込んだ。志乃は右足を車にかけたとき、確かに僕を見て微笑んだ。唇をするりと引き伸ばすあの笑い方で、確りと僕を捕らえた。
負けたと、僕は思う。そして言い知れぬ恐怖を感じる。しかし彼女が僕を見たのはたった一瞬で、すぐに彼女の姿は車の中に消えてしまった。ロータス・エリーゼが消えた後も、僕は暫くそこで震えていた。
彼女は、一体何をしようとしているのだろうか。