5/高橋愁の視点、西川志乃と高橋愁の会話
別れてほしい、と僕の彼女は言った。
当然のように、繰り返し言ってきたように。それは先ほどホットココアを頼んだ時と同じように迷いがなく、またさらりとした口調だった。だから僕もまた当然のようにそれに対して返事をした。
「分かった」
「ありがとう。愁がそう言ってくれると私も気が楽だし嬉しい。――たぶん今日以降こんな風にすることもないんだろうけど、最後だからと思って今日は一日空けてきたの。愁に付き合うから、好きな所に行きましょう」
彼女はにっこりと笑っている。そこに至ってから僕の思考はようやく事態を飲み込み、俄かに混乱してきた。別れてほしい。確かに彼女はそう言った。そして事態は離別に向って進んでいる。
「ちょっと待って」
彼女は怪訝な顔をした。
「何?」
「別れてほしい?」
「ええ。私はそう言った」
「何でさ。うまくいってただろ?」
彼女は事態を飲み込めないような顔をした。
「同意してくれたじゃないか」
彼女はたまにこういう口調になる。僕は彼女のこの喋り方が好きだ。
「確かにそうだ。でもさっきは事態が上手く飲み込めなかったんだ。同意は取り消す。大体、あんなにさらっと言うことじゃないだろう?」
「何でもかんでも深刻そうに話す必要はない。それとも、辛気臭い顔で話せば君のお気に召すの?」
「そうじゃなくてさ――とにかく、何でそうなるわけ?」
「私の個人的な事情だよ」
「そりゃそうだろ。個人的じゃない別れ話なんて聞いたことない。僕が聞いてるのは具体的な理由だよ。僕のどこが嫌とか、他に好きな奴が出来たとかさ」
彼女は軽く息を吐いた。おそらくは溜息だろう。
ホットココアが来て、彼女はそれにちょっと口を付けて、それからまっすぐに僕の事を見た。
「誰かとの関係を断つために、そういう外的な理由が必ずしも必要なの?まず、愁に対して不満があるわけでもないし、好きな人がいるわけでもないのは伝えておく。強いて言えば――」
「なに。強いて言えば」
彼女はしばらく黙ったままで、自分の手を見つめていた。彼女は何かを考えるときいつも自分の手やら靴やら、ほかにも何でもない物をじっと見つめていた。
「本当に私の個人的な事情としか言いようがないの。他に巧く説明できない」
僕は困った。彼女が好きだ。こんなところで、こんな訳の解らない別れ方はしたくない。できることなら修復したい。しかし僕らの何を修復すればいいのだろう。
「個人的な事情って?引っ越すとか、そういう意味の?」
「――違うと思う――私の中で一度すべてに整理を付けておきたいの。その中に愁との関係も入っていて、整理しておかないと愁にとってもとても失礼なことになる。私としても、誰かに対してそんな風に誠意を欠くようなことをしたくはない。うまく説明できないんだけど、私の言いたいことが解る?」
「正確に理解している自信はないけど、僕なりには」
「でも肯いてはくれない?」
「整理を付けるにしても、だからって何故いきなり別れるっていう話になるのかが分からない」
「そうすることでしか整理がつかないの」
彼女は非常に苦しそうに言った。
「分からないな」
「――じゃあ引っ越しに譬えましょう。何処か遠くの、未開の地に行くの。ヨーロッパやアメリカ、アジア――どこでもいいけど、そういう簡単にメールや電話や手紙ができるところではない場所。そこへ何年も行くの。その前に身辺整理として親しい人にお別れを告げる。家も引き払う。そんな感じ、だと思ってくれる?」
今度は何となく理解ができた。
彼女はココアを少し飲んだ。僕もつられるようにコーヒーを口に含んだが、もう冷え切ってしまっていた。
「それはどのくらいの期間?」
「解らない。でも一年や二年ではないでしょう」
「なんで――」
それが僕たちの間でどれくらい意味のない愚かしい呟きかは解っていた。でもそれは僕の口から勝手に滑り出て行ってしまい、彼女に届く前に死んだ。