16/瓦解
来ると思った。いらっしゃい。
西川志乃は妖精のように幻想的な微笑みを掲げて私を迎えた。神の愛娘ででもあるかのように、この世界の女王ででもあるかのように、光輝に満ちている。神々しいまでの美貌。華やかな腐臭。虫唾が走る。
「よく、そんな風に言える」
彼女の新居は海辺にあった。真新しく広い一戸建て。ゴシックな内装の、彼女好みの部屋。
私の声が幾分震えているのに反し、彼女の声は実に落ち着いている。
「なぜ、私がおどおどしなくてはいけないの?」
「父が死んだのは知っているのでしょう」
「はっきりと知ったのは今のあなたの言葉が初めてだけど、彼ならそうすると思った」
「わかっていて、獣のようなことを父に?」
「父としたの」
私はそれまで握りしめていた拳を振り上げ、蒼白い彼女の頬を強かに打ちすえた。彼女は眉一つ動かさずに、静かに私を見据えた。その瞳の中に、僅かに縋るような光を感じる。
「私は――あなたが憎いの」
道を失った子供のようだ。
嫌いなの。疎ましいの。憎いの。厭わしいの。
でも、愛しているの。
彼女は泣いていた。
姉は、さめざめと泣く。父を求めていることが、私を求めていることがわかった。苦しそうに喘ぎながらも何かに対して呪うような執着の情熱を注ぐ。彼女の本質がやっと分かった気がする。誰一人触れさせなかった世界が、彼女の中で腐臭を放っていた。
「先日、母が死んだの」
私は何も答えず、その続きを待った。
「母は私に信じられないことを聞かせた。聞きたくなどなかったのに、知りたくなかった」
「何」
空ろな瞳が私を捉える。
私を見据える女は、信じられないほど美しい。
「私は、父の子ではないと――ふふふ」
西川志乃が、笑う。寒気が止まらない。
ふふふ。
ふふふふふふふ。
ふふふふふふふふふふ。
ふふふふふふ。
「父の子ではない、ですって。ふふふ。父も知らなかったんですって。ねえ、じゃあ、私は何なの?父の子でないなら、私は彼の何なの?彼は、彼にとって私は、愛した女の一人でしかないなんて。ふふふ――」
嘔吐するように笑う。
「私は学生時代に母が間違って作った子で、急いで父と結ばれて、なんとか生んだけど――間違いだったわですって。間違い?どういうこと?何よ、それ?あはは――」
ふふふ。
あははは。
「あの女、馬鹿じゃないのッ」
私は、志乃が声を荒げるのを初めて見た。そして、大きく息を吐く。
「ねえ、あなたは私をどう思う?」
柔らかな、聖母の微笑みを浮かべて、彼女は尋ねる。傷ついた獣のような痛ましい姿。弱弱しい子供。彼女を痛めつけることが、誰にできるだろう?
私の中で、何かが燃えている。渦巻く何かが、私を蝕んでいる。私は押し殺してきたこの感情を、確かに知っている。たった今まで、目を逸らしてきた。しかしこれが私の中核をなすものであると、ずっと分かっていたはずだ。欲望を呼ぼうか。穢れと呼ぼうか。名など知らない。ただ、私の最も親しい友人であるもの。西川志乃の、熱っぽい視線を見返す。浅ましいとか、おぞましいとか、忌まわしいとか。すべてはこの感情から目を逸らしたいがための口実だ。もはや、鞄の中のナイフを振り上げる力は、私にはない。逃げられるわけがないと、なぜ今まで私は判らなかったのか。
私は白旗を上げた証に、美しい姉に接吻をした。