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ピンチランナー

作者: たこやき

午後21時-。

縺れた展開は最終局面を迎えている。両軍をそれぞれに応援する歓声がオーバーラップし、決着を後押しするかのように臨場感を演出していく。その光景を望むかのように見渡す者、緊張を和らげようと頬を膨らませ息を大きく吐く者-。


「たかだかスポーツに金を投じて…我が身のように声援を送り続けるなんて理解出来やしないな。リターンがある競馬やボートでもないのによ。馬鹿馬鹿しく思わないのかね。」


低くぼそっとした言い回しの台詞が聞こえてきそうだ。3塁ランナーの男は歓声を送る何万といる客席を一瞥し、口にはしていないが、その表情は俯瞰している。しかし、客席の感心の1つはこの男がホームを踏むかどうかにも強く向けられていた。

雲原風海(くもはらかざみ)。清涼感のある字面に反し、33歳の男は二重の垂れ目に無精髭。目尻やほうれい線の皺から、チーム内の若手コーチよりも老けて見える風貌と、陰気さが拍車をかけて名は体を表すを否定したくなる。職業はプロ野球選手。華やかな職業だが、煌びやかなスポットライトの他は思いのほか暗いもので、雲原はスポットライトとは無縁の立場にあった。ファンの間では一応、1軍に居ることもあるが、別に他の若い選手が取って代わっても何の問題も無い程度の評価だ。


野球とは点取りゲームである。代走という戦術は足の速い、走りの巧い選手を起用し点を取りやすくするためのもの。同点で最終回の表裏の攻防は裏-。雲原のチームは1点でも取れば勝ちになる。先頭打者が出塁し、足が遅いため代走を起用した。

それが雲原であり、彼の1軍での主な仕事である。花形となる打つことを期待されずに、走ることで首を繋いできた。その足も、チームメイトの若手にお株を奪われはじめて来ている。崖っぷちの立場である。

プロ野球選手は毎年新人が入ると同数程度の者が首になる。ベテラン選手が対象として挙がりやすく、力の衰えや若返りの方針という篩いにかけられて職を失う。この時期はシーズンの結果を占うやり取りでファンは盛り上げる一方、誰が首になるのかも一部では話題となる。私が知る限り、雲原も良く名前が挙がっていた。


高校時代から良い選手で有り、何より打つことを評価された選手ではあったが、全国有数の実力者が対象とされるプロの世界から見ると地味であった。大学、社会人と名門と呼べるチームに属して野球を続けて来て、最期のチャンスと望んだ社会人野球の全国トーナメントで好調を維持し、溌剌としたプレーがスカウトの目に留まり即戦力候補としてドラフトされた。25歳だった。

雲原は嬉々として幼い頃から憧れていた夢舞台に立てると高校生の時のような笑顔で語っていた。


「今更言い訳なんかしないっての。単なる事実。あれが無かろうとも今が違うかって。大差ないだろうよ。」

春と呼ぶにはまだ肌寒い頃、悲痛な声が球場に響く。紅白戦で相手投手の投じた球が手首に当たり骨を砕いた。痛みに顔を顰め膝をついて蹲る。直ぐさま分かる異常性に現場は騒然として翌日の紙面には期待の新人が離脱する記事が載った。大きな障害は日常となった。復帰後も期待された打撃は秘めたる才能を開花させないまま今に至っている。口外出来ずにいたが、本気でバットを振ると痛みがあって暫くは痛みの恐怖心が何時までも残り、痛みが無くなった頃には打撃の良さはすっかりと潜んでしまった。

あの怪我さえ無ければ-。たられば論は不毛ではあるが、もっと活躍できただろうという議論は、雲原自ら暗い方へと論破した。

「所詮はプロの世界に憧れ続けただけの実力。うちの4番とかよ、プロで3億貰うために来たとか言うんだ。怪我なんて無くても、ハナから違うんだよ。」


打撃で活躍できないと悟った雲原はもう1つ自信のあった足を武器にしようとした。無駄な筋肉をつけないように食生活や練習メニューに気をつけることも無く、特筆すべき姿勢は無かった。寧ろ若手の意識に悪影響を及ぼすものと、当時の2軍コーチから雷を落とされたこともあった。


雲原は足の速さには才能があった。別段トレーニングを積んだり、節制しなくてもチーム内で上位の速さを保った。それが偶然チームのニーズに合った。3年で首となる可能性があった男が、8年以上も雇われているのだから、大した才能である。熱心にトレーニングを積まなかったのも、若手がだらけてしまうことは自身へのチャンスでもあると、チームよりも個人の都合を優先した。それ以上に周囲への感心が低かった。


一方の歓声が沸く。2アウト。ランナーは3塁。両チーム後ひと押しといった状況になった。雲原の心拍の波が大きな波形を作る。俯瞰した表情にも顎が無意識に上がる時がその合図である。普段ならばこの癖は出ない。早く帰りたいがために、打者に早く打って試合を決めろと思っている。今回は何かをする積もりであり、その何かを感じ取るのは私だけのはずだ。


スポットライトの外へ戻そう。主役と脇役があるのは当然として、プロ野球選手になるような者は、元々は華やかな主役の立場にあった。華々しい活躍とゲームの主役になる快感を経験している。雲原も当然、地味と言われても社会人野球時代は歓声を一身に受け、ドラフト前後は親戚や社内の多数の人の羨望を得たし、快感だと思っていた。しかし、プロでは怪我か或いは実力の差が、目立たない場所にいようと思うようになっていった。目立たなくても良い。程々に練習して、程々に活躍して程々に稼いで-。

年俸は1,800万。プロ野球選手の平均年俸は3,800程度というと、平均よりも大分落ちるが、入団時からは1,000万の上積みがあり、何より社会人時代は350万の年収だったことを考えれば不満は無かった。程々さ加減が反って怪我も少なく、プロ野球選手特有のメンテナンスの出費もかなり抑えることが出来ていた。

安い総菜コーナーの弁当やコンビニ弁当を食べることも多く、偶に行う競馬や競艇がストレス発散だったが、散財はまではいかない。おおよそ華やかさとは無縁であることに居心地の良さを覚えた今、プロ野球選手としても目立つことのリスクを恐れていた。


野球しかやって来なかったから-。

野球。

今の言い分が間違いないとして、野球の文字を取れば-。

  。

白紙となる。いや、1つ1つ齢を重ねた者からすれば、何も残らないという方がしっくり来る。それが怖いとも思えるようになる。自由気儘にやって来た雲原という男は、自身の脚力の衰えを明確に自覚した時に恐怖を覚えるようになった。その恐怖に打ち勝てる自信すら無かった。つかの間の恐怖を上回る快楽が欲しいと、酒や女にのめり込むことも続かずに、快楽の矛先を野球へ向けた。33歳の秋の頃である。1度でも羨望と歓声を独り占めにして目立ちたい。ずっとやって来た野球で何か遺したい。自らが主役になり、ヒーローインタビューを受けて気持ちよく引退したい。スポットライトを浴びる今夜が絶好の刻-。



投手が足を上げる。その瞬間に歓声と強い意志に押し出されるように雲原は本塁を目指して走り出す。

まさか-。相手は直ぐに気付くものの一瞬の隙。信じられない単独の判断が作った隙の間に高く広い歩幅の足が風を切り強く地面を蹴り、カモシカのような躍動感に観衆の一世一代のプレーを見られる期待と大歓声を背中へ一身に受けて追い風となる。全盛を迎えた驚異的なスピードは試合を切り裂くつむじ風となり吹き込み、捕手のタッチも間に合わずホームを駆け抜ける。

試合を決したことと信じられないプレーに歓声が最高潮を迎えつむじ風に絡まり竜巻に至るほどの地鳴りのような声が球場内に響いた。人生で初めてのヒーローインタビューに呼ばれた男は、自信と、どこか慣れない辿々しさで途中咳き込みつつ、受け答えた後に引退を宣言し、入団以来最も目立った一時の快感に恐怖を全て溶かしきった。高校生のような笑顔で。



雲原の持ち込んだ台本ではそうだった。

スポットライトに戻そう。投手が足を上げる。頭の位置は動かず、静かに糸に引っ張られるように本塁へ揺れ動き、走り出す。2アウトだったせいか、一切目立ってこなかったせいか、相手は気付くことに大分遅れた。黒子のような静かな走り、相手3塁手の声でやっと気付いた投手が焦りから投じた投球は捕手の手前で大きく弾み、右後方へ逸れていく。暴投により雲原は労せずに本塁を踏み、拍子抜けした試合に決着をつけた。難航したが、結局ヒーローインタビューは別の選手が受けた。

間もなく2軍へ落とされ7日後の2軍戦。雲原は2塁への盗塁を失敗してしまう。彼は呟いた。台本と読み比べていたのだろうか。

「1週間で随分と衰えたな。」

老け込んだ表情も、瞳はあの頃のまま。苦笑いを遺してその日、チーム関係者へ引退を申し出た。


悔いは無いです、と。



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