第22話
大して間を置かず呼び鈴が鳴った。
『忘れ物かな?もう、あの子はあわてんぼなんだから』
はいはいと言いながら真知子は玄関へと走る。
ドアを開けると見たことのない男が立っていた。
宅配業者などの出で立ちではないその男に真知子は一瞬にして危険を感じた。
一気にドアを引くが既に片足を入れられ閉じることはできない。
視線を上げると刃物が自分の目先に向けられている。
「騒ぐな。殺すぞ。」
小声ながら低い声は抵抗も説得も受け入れる雰囲気を微塵も持っていない。
後ろ手に鍵をかけ、後退る真知子との距離を一定に保ち、男が部屋の奥へと侵入する。
真知子は声も出せず刃物から目が離せない。
「座れ!大きい声出せば殺す。」
背後から口を覆われ、首筋に刃物を突き立てられた真知子は二回頷いた。
当然その聞き慣れない声と緊張感は研次にも伝わる。
『まさか強盗か!?・・なんでここに!?いつの間に入った?いや、それより真知子が危ない!』
だが、一匹のゴキブリに何ができる?
人間の体であっても救出は困難なうえに相当な度胸が必要な場面である。
ましてや自分のことなど忘れて他の男にうつつを抜かす女を助ける必要があるのか。
色々な思考は言い訳がましく、まごまごとしかできない研次は胸にチクリとした痛みを感じた。
賊は借金のトラブルから既に二人を刺して逃亡中の者だった。
すぐに警察が動き、捜索しているが賊は真知子のマンションの入口に潜み、亜紀が見送られるのを確認して彼女と入れ替りにロビーのセキュリティをくぐり抜けて二階へ上り、亜紀と思わせて侵入する手口を使った。
しばらくして呼び鈴が鳴る。
警察は虱潰しにこの地域を捜索していた。
反射的に真知子は目だけで賊を見るが彼はゆっくり首を横に振る。
呼び鈴がさらに複数回押される。
まだ夕刻前だが天候の良くない冬で室内の明りは灯してある。
その状態にあって呼び鈴に反応はない。
警察もここに不審を抱いていた。
『これが最後だ!』
研次は決意した。彼女に姿を晒すのは今を措いて他にない。
研次は二人から死角になるよう冷蔵庫の陰となる壁面を登った。
見つかってしまえば奇襲にはならない。
そこから天井に逆さになってじっと張り付き、機を伺う。
「すみませ―ん、誰かおられませんか―?」
その声に刃物を持つ賊の手に力が入る。
『今だ!』
確実に二人の位置を把握した研次は落下に踏み切る。
それに呼応して背中が開き、ブゥゥンと低く不快な音が二人の耳へ近づいてゆく。
「きゃ!」
「うぉ!」
真知子が小さな悲鳴を上げ、賊も予期せぬ事態に喫驚した。
反射的にゴキブリを振り払う手が一瞬真知子から離れる。
『真知子!逃げろ!!』
できる限り賊の頭部を這い回り、心でそう叫んだとき、賊の手が研次に当たり、彼はフローリングに叩きつけられた。
真知子は必死に玄関へと走る。
賊は真知子を諦め、背後の窓から逃走を図った。
すぐに警官が踏みこみ、後ろの者に窓側に回るよう指示が飛ぶ。
真知子は警官の腹辺りの服をぎゅっと掴み、そのままへなへなと座りこんだ。
警官はもう大丈夫だと彼女を宥めたが真知子は茫然としていた。
暫くして犯人確保の一報が伝えられ、それが耳に届くとやっと真知子は立ち上がり、部屋の奥へと歩を進めた。
『あ~、現場調べますんで奥へ行くのは待ってください。』
そんなことを聞かず真知子はそこへと近づく。
研次は賊に叩かれたうえに無造作に体を踏まれていた。そのためにもう動くことは出来ない。
しかし、今までのように痛さはない。
頭の中がじんわり温かく、穏やかな春の日射しに包まれているようだった。
「・・もしかして、助けてくれたの?」
研次は精一杯頷いてみたがそれが真知子に伝わったのかは判らない。
『あぁ、かつて俺は誰かだった・・』
前の人間だった幼い頃、その自覚があったことを研次は思い出した。
“これが沈むと俺はそれを忘れてしまう”
ならばとこの事だけは記憶に留めようとじっと夕陽を眺めていた。
『なんで急に思い出したんだろう・・?』
薄れゆく意識の中でオレンジを帯びた金色が海に反射するような光となって脳内に広がる。
そのゴキブリはもう生き返ることがなかった。




